2005年8月17日(水) 「帰省@−細木数子について思うこと」
先日、大阪にて久しぶりに高校時分の仲間と飲んだ。「入学十周年」という触れ込みで呼びかけたところ、予想に反して多くの人が集まった。そして、予想に反して多くの時間を共にした。朝まで10人規模で飲み明かしたというのはここ数年の記憶にはない。明け方、「俺もまだまだ若いことが証明されてうれしい」と呟いたら、「そのうれしさの実感がすでにオッサンであることの証拠」と揶揄されもした。それは、とてもなつかしくて良い時間であった。
さて、その中でいくつか面白い話もした。近況報告然り。思い出話然り。ただ、こうして公の場で不特定多数の人間に文章を向ける以上、内輪の面白い話を書くことは控えよう(この日の話題で「なぜネット上で文章を書く必要があるのか」ということについても考えさせられたが、そのことについてはまた後日、この場でさしあたりの考えを述べようと思う)。この日僕の感じた、内輪の枠を超えて伝わるのではないかと思われる面白さ、それは「占いを信じるということの是非」である。
二次会での出来事。みんな程よくお酒も回ってきて、口調も滑らかになってきたころ、女の子の間で細木数子のことが話題に上がっていた。「あの本、いいよねぇ。あの予言、ピタッとあたるの。」「ほんと!?実はあたしもあの本持ってるよ!不思議なくらい当たるよねぇ。もう細木信者よ!」彼女らのいう「あの本」というのは、細木数子の書いた予言じみた本のことで、12種類にパターン分けされた人間の運気のリズムが、それぞれカレンダーになって示されているのだという。「やれやれ」と思っている僕に、やがて勧誘の魔の手が伸びてきた。
女「ねぇねぇ。細木数子の本持ってる?めっちゃ当たんねんでぇ!一回読んでみいや。」
僕「へぇ、そんなの信じてるんやぁ。」
女「うん!めっちゃ当たんねんでぇ。言ってくれたら今日ここに持って来たったのに。」
僕「(いつ言う機会があったのだろうと思いつつ)でもなんかそういうのを鵜呑みにするのって、自分の人生を見透かされたみたいで悔しくない?」
女「いや、だってほんまに悪いこととか避けられるんやもん!むしろ感謝やわ。でも男の人って、こういうの好きになれない人多いよなぁ。あたしの彼氏もそう。『運気悪いから注意しいや』って注意したってんのに言うこと聞かんと、で、トラブルに遭って『だから言わんこっちゃない』って言っちゃっては、いつもケンカになる。」
僕「男一般の意見かどうかはわからんけれど、僕個人的な意見を言わせてもらえれば、そういう類の本はあまり好きじゃないね。なぜかというと、結論を疑うことのできる余地が多すぎるからなんよ。たとえば、『今日はあなたの運勢は良い』というページを見て一日をスタートしたとする。すると、その後は『どんないいことが起こるんだろう』という眼差しで過ごすことになる。いいかえれば、ひとついいことが身に起こると、『予言どおり』と息巻いてしまってもう少々の悪いことには目が行かなくなる。逆の場合も然り。つまり、先入観でものを見させられているに過ぎないのではないかと。」
女「へぇ、たしかにそうかもしれんなぁ。」
僕「ただ、ここで僕が言いたいのは、『だから僕は信じませんよ』ということだけであって、『だから信じてはいけませんよ』ということではないんよ。価値観の違う人にそう言ってしまうのは、自分の価値観を相手に押し付けてしまうようで、なんかおこがましい気がするのでね。宗教戦争みたいで。『へぇ、あなたはそう思うんや。僕はこう思うな。』っていうこのスタイルが健全なんじゃないかな。これだったら、彼氏とケンカにもならんでしょう。」
女「でも、あたしはこれからも細木数子を信じるよ。信じてるから、やっぱ彼氏にも進めちゃうかも。」
僕「(やれやれ。)」
さて、このホームページ上は先のような対話の場面ではないので、ここではもう少し「おこがましく」持論を展開させようと思う。
まず先入観ということについて。これは、この次の日に別の友だちと語り合ったときに頂いた意見でもあるのだが、「運勢が良い」と言われるよりも実は「運勢が悪い」と言われるときのほうがタチが悪い。たとえば、仮にその日いいことが何も起こらなかったら「予言が当たった」という結論になる。また、逆に何かいいことが起こった場合でも、「今日は運勢が悪いんだからこれには裏があるかも」という猜疑心を抱くか、あるいはそのいいことが余りにいいことであった場合は「予言が外れることもあるのね。でも幸せだからいいわ。」といった心情に至る。つまり、いずれの場合でも、予言者そのものは非難されないシステムになっているのだ。そのシステムを駆使して「信者」からお金を吸い取るという態度に、僕は率直な嫌悪感を抱かざるを得ないのである。
次に、価値観の押し付けということについて。これはとても難しい。というのも、「価値観の押し付けはいけない」ということを正しい命題としても、こういう僕もこの場で自らの価値観を活字にしている以上、いくら言葉で取り繕ったところで、現実には少なからず価値観を誰かに押し付けようとしている(あるいは「受け止めてもらおうとしている」)のである。翻って、けっして自己弁護するためではないのだが、では「価値観の押し付けはすべていけないことなのか」という問いをここで立ててみる。すると、この答えが否であることは、ある程度までは先人の価値観を受け止めながらここまで成長してきた自らの歴史を振り返れば一目瞭然ではないだろうか。つまり、上の会話での僕の発言は、一つの極論なのである。美味しいラーメン屋を見つけたら、「あのお店のラーメン美味しいよ」と親しい友人に伝えることそのものに罪はない。そうした情報交換で、お互いに見識を広めていくことは極めて重要であると思われるからだ。ただし、仮にその友人から「いや、おれラーメン嫌いだから行かないよ」という返事が返ってきた時、そこで(まだまだ強引にそのお店を勧めるにしても)「へぇ、あなたはそう思うんだ」と一言いえるかどうか。社会生活をともに営む人間として、この一点にはぜひ自覚的であって欲しいと願う。
女「でも細木数子の言ってることって、間違ってはないよね。すごくいいこと言ってるし、それに救われたって人もたくさんいるよ。」
こんな意見もあった。たしかに、僕の細木数子に関する数少ない記憶を拠り所に判断する限り、その評価は概ね正しい。しかし、だからといって信頼に足りる予言者といっていいわけではない。「でもカウンセラーとしては立派なんじゃない?」という意見もあった。「どんでもない」と僕は思う。カウンセリングの基本は、相談者に指示しないことである。まず相談者の話をじっくり聴き、相談者に言葉を思う存分に語らせる中で、相談者自身に自分が本当に求めていることを気づかせなければならない。しかし、細木数子はこれとは全く逆のことをする。これまた数少ない記憶を拠り所に、僕は次のような言葉を口走ったと記憶している。
僕「美輪明宏は目に見えないもののメッセージに従って、前言撤回せざるを得ないときは前言撤回すると思う。でも、細木数子は自分の一言前の発言に縛られて、どんな時も前言撤回しないと思う。」
とはいえ、僕は美輪明宏もよく知らない。ただ、飲み会にてある程度の賛同が得られたので書いてみたまでである。ここで僕が語りたいことは二点あって、一つは非科学的な事象を僕は一切信じないというのではないということ、もう一つは細木数子のスタイルそのものに対する懸念を拭えないということである。科学で説明できない事象は確かにある。それも、たくさん、根底的に、あると思う。しかし、細木数子はそうした目に見えない、非科学的なことを、科学的に全人類を12のパターンに分類することで(というのは、この分類にはどうやら統計学が絡んでいるそうなのだが、その妥当性ここで検証し得るだけの知識は残念ながら無い)説明しようとする、否、している。法則ありきで、目の前の人間を断罪する。細木数子が目の前の人間を断罪することで法則そのものが別のルールに変化するという可能性は、そこでは認められていないように思われる。いわば「神」のように語る。
とはいえ、その「神」の言葉に救われる人たちがたくさんいることは事実であり、その救われた人たち、あるいは救済行為そのものを、もちろん僕は愚かだとは思わない。彼ら(「彼女ら」といった方が適当かもしれない)にとって、細木数子は紛れもなく大きな存在で、また彼らの人生に大きな意味を与えたのである。「神」のようなものにすがらざるを得ないほどに過酷な状況からたとえ片足でも抜け出ることができたのなら、その成功経験そのものを否定したりはしない。しかし、繰り返すが細木数子は「神」ではない。世界のすべてを知っているわけでもない。この一点は、どれだけメディアの造る幻想に酔わされそうになっても、自覚し続けねばならないことだと思う。なぜなら、細木数子の本を買う人の多くは、細木数子という「神」を必要としなくても十分に意思決定しうるだけの生命力が確保されている環境に身を置いているように思うからだ。本来予言を必要としていない人に予言が染み込まされてしまうと、そこで自らの人生を評価する試行錯誤が損なわれる。自らの人生を評価する試行錯誤を損なわれた人たちに溢れた社会は、本質的には退屈で、対話に乏しく、創造性を欠き、また、少なくともそうした試行錯誤を損なうまいと努める人間にとっては歯がゆく、とても生きづらい世の中である。それゆえ、細木数子がその能力の責任において救うべき(予言すべき)は、世の中の一般大衆のことではなく、目の前の相談者のことに尽きる。それこそが世の中の一般大衆(社会全体)のためである。僕はそう思う。
飲み会にて、細木数子を「単なるいいこと言ってるオバサン」と表したSEの男友達がいた。今ふりかえって、「なるほど」と思う。ただ、これでは少し可愛そうな気もするので、最後くらい、僕は少しだけ細木数子を弁護しようと思う。すなわち、細木数子は「単なるいいこと言ってる統計好きな自己顕示欲の極めて強いオバサン」であると。でも、これでは弁護になってないか。
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