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2005年5月14日(土) 「目標と『多忙』の関係について」
昨日、自分が担任をしている一年生の遠足が終わり、今ようやく一息つくことができる。こうやってパソコンに向かい、自らの経験を振り返り、言葉にするという時間も、ここにきていよいよ少なくなってきた。時間が無いのである。
とはいえ、生活時間の大半を学校に拘束され、日々を忙しいと振り返ることは、今年に始まったことではない。たとえば、去年度の僕は東京都の新規採用教員という立場ゆえに、一年間「初任者研修」というものを受講することを余儀なくされていた。そこでは、教師としての基本的な心構えや、学習指導、あるいは生活指導といったことの基本や原則を学んだり、あるいは先輩教員の授業を参観したりした。そして、それはそれで貴重な体験ではあったのだが、しかしそれと同時に課されるレポートは苦痛であった。一つの体験を振り返り、言葉にして留めておくことの意義は理解しているつもりだが、しかしそれが(このような徒然なる日記という形ではなく)提出期限付きのレポートという形となれば、いっきにこちらの意欲は下がり、乾いてしまうのである。自分のために書いているのではなく、お役所の人のために書いているような錯覚にも、幾度と無く陥ったりもした。書くことが、目的ではなく、手段と化してしまっていたのだろう。
それでも、どうにか無事に一年間の研修を終え、迎えた二年目。初めての担任ということで、やはり落ち着ける時間というものがなかなか得難い毎日ではある。目の前の仕事に追われ、予期せぬ生徒同士のトラブル対応にも追われ、結果、こうやってパソコンと向かい合う精神的な余裕など殆ど持てなかったこの一月である。しかし、それでも、去年のように、自分を見失ってしまったり、空しさに呑み込まれ途方に暮れてしまうといった感覚に苛まれることが、今年になってからはぐんと減った。
少し話は変わるが、先日、一年生の漢字の組み立てを扱った授業で、「人が木のそばですることは?」というなぞなぞを投げかけた。答えは「人偏」に「木」で「休」である。ほとんどの生徒が納得したので、今度は生徒にオリジナル問題を作らせて見た。すると、とても鋭い問題がいくつも出てきた。たとえば、「心を亡くしていると?」というなぞなぞ。答えは二つあった。「忘」と「忙」である。そして、この解答を目の当たりにした瞬間、僕は「忙しい」ということの本質に触れたような気がした。
つまり、事態を少し単純化して考えるならば、去年の僕は「忙しい」人間であったのだが、今年はそうではない。なぜならば、「年度末に正教員として認められる」という将来の目標達成ために働いているのではなく(ちなみに、先のなぞなぞでは「人が動くとどうなる?」というものもあった)、今年度の僕は、目の前の人間(生徒)のために働くことが増えたからだ。日直日誌や班ノートにコメントするのもそう。ケンカの仲裁にはいるのもそう。教室に掲示物を貼るのもそう。「出世」のための仕事ではなく、あくまで「そうしなければならないから」という観念に背中を押されての仕事であるからこそ、いわばそれ自体が目的的であり、それゆえ、そこには「心」が在るという確信を持つことができているのである。
そして、僕は腕を組んでしまうのである。悩みの種は、「目標」を持つということの是非である。教師として、生徒に自らの目標を紙などに書かせることはよくする。そして、一般に、目標を明確な言葉にし、それに向かって努力している生徒は「いい生徒」、目標に向かって有言実行できない生徒は「よくない生徒」と評される。たとえば、部活の試合で勝ちたいから、必死で練習に励むのは「いい生徒」。未来の目標から、今を生きるエネルギーを汲み取る。それはそれで、たしかに素晴らしいことではある。
しかし、未来の目標の全てが、どうやら今を生きるエネルギーを供給してくれるわけではなさそうだということに、僕はこの頃おぼろげながら気づき始めたのである。言い換えれば、今の自分に「心」を与えてくれる目標と、「多忙」しか与えてくれない目標とがある。「多忙」に明け暮れる人間は、大切な感動を「忘」れてしまっている。その違いはどこから来るか。それは、その目標を「頭」が求めているのか、あるいは「身体」が求めているのかの違いに拠るものと思われる(ただ、この「頭」と「身体」について語り出すと議論が込み入ってくるので、この辺りはまたの機会に語れればと思う)。
そして、これは、もしかしたら僕のような、人生の目標を立てられない人間の自己弁護なのかもしれない。でも、最近は次のようなことを、ふと真面目に考えたりもする。「生きることに目標は必要だろうか。」もっと正確に言うと、「人生の目標を言葉にする必要があるだろうか。」
たしかに、先の部活動の例が示しているように、目標が個人を輝かせることは少なくないし、またそれは時として感動的ですらある。しかし、それとは正反対の性質をもつ目標があることもまた事実であり、その目標にとりつかれた時、個人は個人としての「心」を失ってしまうことにもなりかねない。目標を持つということが(あるいは、目標を立てさせるということも)、必ずしもそのまま賞賛されるべきことというわけではないのである。
立てられるべきは、今の自分に「心」を認める目標である。それゆえ、目標は、立てたいときにのみ、立てられるべきである。目標を立てることを、「頭」ではなく「身体」が、熱く、全身に要請してきたときにだけ、その「心」を言葉にする(そして、この要請には他者の存在が必要だと信じたいのだが、ただ、そう断言できるだけの経験的根拠はまだ十分には見つけられていない)。そして、それを達成したり、あるいはそこから「心」が離れてしまったならば、固執することなく更新する。原則論としては、これに限るのではあるまいか。いい目標と、よくない目標がある。そう考えると、先の例で触れた有言実行できない生徒についても、生徒がよくないのではなく、目標がよくないのだと思われてくる。
最後に、教育者としての留意点を付記するならば、なればこそ、生徒に健全な目標を立てさせるには、そのタイミングと、土壌づくりが大切になってくる。いい目標を立てさせるには、自身の固有で正直な「心」と向き合わせる濃密な場面をつくることが必要不可欠となる。なぜならば、「こう書いておけばいいだろう」という無味乾燥な目標を書くことになれた人間は、自分の「身体」の欲する要請に、すこぶる鈍感になっていくように思うからである。
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