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2004年12月13日(水) 「自立と依存ということについて」
「日記更新」という文字を見て、合唱コンクール話の続編を期待されたなら申し訳ありません。これから記そうと思うのは、合唱コンクールとは全く関係のないことです。思い立ったことを記すのが「徒然日記」ゆえに、思い立ったことを最優先して記そうと思うのです。
それでは、近ごろ私がどういったことを考えているかといいますと、表題にも書きました通り、それは「自立って何だろう?」「依存ってどういうことだろう?」といったことです。思い悩むに至った経緯は話せば長くなるのでここでは於くことといたします。また個人的にお酒でも交わしながら語らいましょう。ここでは、そのように思い悩んだ後の思考の経緯につて、少々述べてみたいと思います。
「自立」「依存」ということを考えようとすると、僕は大学時分の恩師の言葉を想起せずにはいられなくなります。「自立」は英語でindependence、「依存」は英語でdependence。だから「自立」よりも「依存」の方が、言葉の成立は先なんだよ―その言葉が、あのしわがれた声とともに、今でもみずみずしく脳裏に響いてきます。そして、脳みその足りない僕は、その含蓄ある一言を、「ああ、だから『自立』よりも『依存』の方が人間にとって根源的な態度であり、大事なんだな」くらいにしか解釈していませんでした。つい最近まで、そのようにしか解釈していませんでした。
とはいえ、たしかにそのような解釈も可能ですし、ある意味では的を得ているという気が、実は今でもしています。ただ、そこで「ある意味では」なんて条件をつけたのは、つまり、「人に頼ることを愚かな恥だと確信しているような人にとっては、そのような解釈は的を得ている」ということです。逆にいえば、誰かに依存しっぱなしの人にとっての「『自立』よりも『依存』の方が人間にとって根源的な態度であり、大事なんだ」といったテーゼは、いささか生産性に乏しい気がするのです。
今になって斯く自明なことに気づいたということは、今になって漸く私自身が誰かに心底依存しっぱなしになるという経験をしたと謂えないこともないのですが、個人的な話はお酒の席でいたしましょう。ただ、恥を承知で申し上げれば、人に甘えだしたら止まらないという性向が実は自分の内には在ったのだという事実だけは、ここに記しておきたいと思います。
依存の対象をここでは「あなた」と呼ぶことにしましょう。たとえば、やるべき仕事があるにも関わらず、「あなた」に会いたくてしょうがない。重んじるべき人間関係も、「あなた」との時間に比べれば塵に等しい―昨今自らのうちに見出した、我が「人に甘えだしたら止まらないという性向」とは、かように情けなきものでした。
もちろん、自らの情けなき性向を今このように反省することができるということは、現在はその欲望の底なし沼から少しばかり脱却しえてはいるのですが、しかしそれゆえ、昨今は強く次のように思うのです。すなわち、「『自立』は人間の生活に必要じゃないか」と。
依存関係において最も損なわれると思われるもの、それは「向上心」ではないでしょうか。「向上心」―すなわち、自分自身をより高みへと磨き上げ、未だ見ぬ新しい世界の空気が体中を満たす快感を味わわんとする態度が、私の場合、「あなた」とのひと時には微塵も自らのうちに認められなかったのです。否。正確には認める必要がなかったといいましょうか。極論すれば、「今自分はこんなに満たされているのだからそれでいいじゃないか」という、まさに典型的な享楽主義でしたね。
それゆえ、「あなた」との「向上心」なき二者関係は、原理的に社会生活を困難なものにすると思います。いうまでもなく、二者という、ある意味では局所的ともいえる場で、相互の欲望の循環が完結してしまっているからです。
今、何気なく「相互」という言葉を使いました。そうです。依存関係が完全に成立するためには、互いに甘え、かつ、同時に甘えられなければなりません。翻せば、片方が自立志向の「向上心」を抱いた途端に、ガラスの如き冷たく鋭い壁によって二者間の満ち足りていた空間は真っ二つに切り裂かれ、その享楽的二者関係は消滅します。いうまでもなく、そこでは他方が一転して孤児のごとき不安の底に叩き落されることになるのです。Don't Leave Me―数え切れないくらい多くの詩人が詠った言葉ですね。
依存しあえる二者関係が永続するならば、人は自立などする必要はないのかもしれません。しかし、人は(一時的には可能であっても)永続的には「向上心」を捨て去ることはできません。したがって、人は自立しなければなりません。自立―社会生活―の中にも、自らの生きる支えを見出さなければなりません。それは、「もし人間が言葉を持たぬヒトならばあらゆる苦難から解放されただろうに」という反実仮想とパラレルであるような気もします。
しかし、だからとって「自立こそが人間のあるべき姿であり、依存してはならない」などと言ってしまうのはやはり早計すぎる気がします。仕事のし過ぎでうつ病に悩む人が増え続けているのは事実です。敏腕な社長ほど、プライベートで奥さんに愚痴をこぼすと言われています。単純に、仕事で疲れた日ほど親友と飲みに行きたくなります。
つまり、ここまで実に長々と述べてきましたが、私のさしあたりの結論はこうです。すなわち、自立するためには、依存せねばならない。自立も、依存も、どっちも大事。しかし、こういってしまえば聞こえこそ良いですが、ただ実生活に照らして考えると、どこか解決案としては腑に落ちない感があります。自立しながら依存するなんて実際にできるのか。それはどんな状態なんだ。そんな疑問が自ずと脳裏に沸き出てきます。そこで、もう少し言葉を選ぶことにします。すなわち、甘えねばならない時だけ甘えることにしよう。甘えすぎると、二者関係を害し、結果的に相手を―そして自分をも―害してしまうんだ。
自立しすぎてもダメ。依存しすぎてもダメ。これが豊かで健全な人間関係の本質なのでしょう。そして、そこから先の舵取り―甘えるべきタイミングの見極め―は、もはや理屈では説明できないように思います。しいて言えば、経験に裏打ちされた勘。経験に磨かれたセンス。これに尽きると思います。大袈裟に言えば、人類の永遠の課題。ただ、本稿の主題は自立と依存について考察することであるので、「健全な人間関係」云々の議論は、またの機会にすることとしましょう。冒頭で私は、「『自立』は英語でindependence、『依存』は英語でdependence。だから「自立」よりも「依存」の方が、言葉の成立は先なんだよ」という恩師の言葉を紹介しました。自立するために依存することは必要であるが、依存するために自立することは必要ではない。その意味において、たしかに、文字どおりdependenceはindependenceよりも根源的であるのでしょう。しかし、だからといって「『依存』が『自立』よりも尊いんだ」と解釈してしまうのはあまりに短絡的ではないでしょうか。恩師の言葉は、「だから『依存』と『自立』の葛藤の中で、人はアンバランスなまま生きねばならないんだ」というメッセージにこそ続いていくフレーズであるのだと、目下私は考えています。
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