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2004年2月26日(木) 「感謝の心 A」
体育館の開け放たれた扉のところまで来ると、すでに人で埋め尽くされている水を打ったような場内の光景が僕の目に飛び込んできた。そして、その緊張感に満たされた光景は、会場の中に入らんとする僕の意思を見事にそのままかき消してしまった。ふと辺りを見れば、僕の他にも数人の先生と在校生がこの入り口に立って、厳粛に、空気の密度がここの数倍はありそうな館内の様子を、じっと眺めている。
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2004年2月21日(土) 「感謝の心 @」
「ごめんなさい。もうこの駐車場は満車なんで運動場の方へお回りください。」
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2004年2月19日(木) 「腐儒の言葉 其の二」
一般に、嘘を見抜くことに長けている人は嘘をつくのが上手である。なぜなら、嘘を見抜くことに長けている人は自分自身嘘をつくのが上手であるがゆえに、他人のつく嘘のパターンを、経験的に、まさに心情の動きのレベルから捉え尽くすことができるからである。 したがって、たとえば嘘を見抜くことに長けている人が恋人の嘘を暴き非難するとき、その憤りの本質はただ個人的な自尊心の損傷であって、間違っても社会的に卑下されるべき相手の狡猾な態度などであってはならない。もしそこで相手のことを本気で卑下されるべき狡猾な人間であると主張するのであれば、そのような態度は同時に自らの狡猾な人間性を本気で主張していることになる。 ちなみに、恋愛の相手として最も厄介なのは、嘘を見抜くことに長けてはおらず、ただ疑い深いだけの人である。 テロルとは、あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇することである。したがって、かの某国が日本人を拉致した事件は、たとえ許しがたい国家的犯罪であったとしても、テロではない。なぜなら、事件発生から何十年経っても、その凶行に付随する政治的な威嚇や要求の類が、彼らから日本政府へ届けられることは無かったからだ。 然して、本質的にテロではない事件をこうもテロだと呼びたがるその理由は非常に単純で、単に「こう呼んだほうが得だから」である。それはアメリカと親睦を深めるためであり、また自らが核兵器の脅威から免れんとするためである。 したがって、「拉致はテロだ」と訴える限りにおいて、「救う会」の言動は原理的に茶番である。茶番などと言われたくないのならば、「救う会」は日本政府および世論に対して、当案件が「外交カード」扱いされていることにこそ先ず憤慨せねばならない。逆に、「茶番でも何でも良いからとにかく家族を帰してくれ」と切に願うのであれば、安易に正義を、つまり「拉致はテロだ」などと語るべきではない。なぜなら、拉致事件に対する日本人の憤りの本質は、おそらくテロという凶行への脅威というよりは、ただ自分と同じ日本人が連れ去られたという同情的な国民感情にあるからだ。かような日本国民に向って「拉致はテロだ」と訴え続けることは、かくも優しい国民感情を無視して、ただ打算的に、国民ではない誰かにのみ語りかけているかのような印象を却って聴衆に伝えてしまうからだ。 帰国した拉致被害者が幸福か否かなんて、帰国した拉致被害者にしかわからない。 そんな当たり前のこと、 何でこんなにも簡単に僕らは見失ってしまえるのだろう。 彼らは、彼ら自身の意思で日本に帰国したというわけではない。 そんな当たり前のこと、 何でこんなにも簡単に僕らは見失ってしまえるのだろう。 拉致被害者自身と「救う会」とでは、某国に寄せる感情が根っこの所で異なっている。 そんな当たり前のこと、 何でこんなにも簡単に僕らは見失ってしまえるのだろう。 「家族と暮らしたい」と悲痛に訴える涙からも、今現在の彼らは決して幸福ではない。 そんな当たり前の叫び、 何でこんなにも簡単に、僕らは「家族を帰してくれ」と解釈してしまえるのだろう。 「拉致被害者を救う会」は、文字どおり「拉致被害者」を「救う」会なのであって、「拉致被害者の会」ではない。さらにいえば、「拉致被害者を救う会」の中でも、現に自分の家族を取り戻した人とそうでない人とがいる。この事実は、情報としての価値こそ低いけれど、しかし我々の思考活動に与える緊張感を考えれば、非常に大きい。 思うに、「救う会」の最大の矛盾は、拉致被害者を救うことよりも、先ず自分たち自身を救おうと考えている点にある。第二の矛盾は、それゆえ、そこに国家の介入を許したことである。 有名人に似ている友人に対して、その友人が有名人に似ていると思うか、それともその有名人が友人に似ていると思うかで、その友人に対する認識は全く変わってくる。有名人は、たとえ同じ時代、同じ地上に存在しているとしてもやはりバーチャルな存在なのであり、一方の友人はリアルな存在である。したがって、友人を有名人に似ていると見なす態度は、本来リアルな存在をわざわざバーチャルな存在の如く扱うという点において、現実逃避的である。したがって、それは現実に目の前に存在している当の友人に対して、極めて失礼な態度だと言わざるを得ない。 況や、自分で自分が有名人に似ていると悦に浸る人などは、もはや哀れ以外の何ものでもない。 痴漢は自然災害ではない。したがって、被災地における避難所の如く「女性専用車両」を設けることは、本質的な問題の隠蔽―あるいは愚策―にすぎない。すなわち、駆逐すべき痴漢を駆逐し得ない存在として前提としており、したがって対症療法ですらない。 「女性専用車両へのご協力ありがとうございます」という車内アナウンスは、善良なる男性乗客をこの上なく嘲弄する言葉であり、正直に「皆様を痴漢だと疑ってしまいまして申し訳ありません」とこそアナウンスされるべきである。しかし、当の男性乗客は怒らない。それは、彼らが真に善良であるか、あるいは単に阿呆であるかのどちらかに拠る。 状況的に見て、ラッシュアワー時に一般車両に乗車している男性の中に痴漢が孕まれている可能性よりも、「女性専用車両」があるにもかかわらず一般車両に乗車している女性の中に痴女が孕まれている可能性のほうが高い。 どんなに一流の野球選手であっても、引退後、たとえばサッカーの解説をするなんてことは稀である。同様に、どんなに有名な宗教ジャーナリストであっても、彼が宗教以外のことについてコメントをしているのならば、我々はその発言に対して努めて懐疑的―かつ嘲笑的―にならねばならない。そこで語られる内容は、概ね美辞麗句に彩られた無味乾燥な一般論である。 したがって、我々が最もリテラシー精神を研ぎ澄ませねばならないは、社会的弱者の語る商業的正義に対してである。 オフサイドのルールを知らない人間でも、サッカーに興奮することはできる。タッチネットの意味が分からない人間でも、バレーボールに熱狂することはできる。その条件はただひとつ、当の選手たちが日の丸を背負っているということである。 「サポーター」という言葉ほど、欺瞞に満ちたものはない。競技場であっても、あるいはテレビの前であっても、戦っている選手を本当にサポートしている人というのは、せいぜい彼らの親戚縁者くらいのものである。ミーハーな人は試合の形勢が悪くなると容易にチャンネルを変えてしまうし、またコアな人であれば一つ一つのヘマに対して容赦なく罵倒の言葉を浴びせかける。いずれにしても、かような人たちは「サポーター」などではない。本質的には、あくまでただ日々の欲求不満を解消したいだけの「観衆」なのである。 「人はなぜ一人では生きられないのか」ということの理由を知りたければ、ウォークマンを聴きながら繁華街を歩いてみるのが一番である。そこで、少し自分の精神に力を込めて、眼前の光景を次のように見なしてしまうのだ―すなわち、ここに溢れかえっているのはみな意志を持った人間などではなく、ただ本能しか持ち合わせていない、いち生物としてのヒトなのだ、と。すると、髪の毛の色とか、パンツとシャツのコーディネイトだとか、瑣末なことに気を遣っているヒトビトのあらゆる様が、実に滑稽に見えてくる。それは愛犬家でもない人間が、ピンクの靴下やらキラキラの帽子に包まれたイヌを見るときの嘲笑に似ている。また、その会話―つまり鳴き声―がヘッドホンに遮られこの耳にまでは届かないおかげで、眼前のヒトビトは、たえず次の瞬間こちらの予想外の行動に出たり表情を浮べたりする。それは爬虫類の苦手な人間が、動物園の檻越しに眺める蛇の突発的な動きを目の当たりにするときの驚愕に似ている。しかし、いつまでも息を止めてはいられないのと同様に、いつまでも眼前の光景をこのように見なし続けることはできない。かくして、人は一人では生きられないのである。 ただし、この実験は必ずしも「人を殺すことはできない」ということを証明はしない。ただ「殺し尽くしては生きられない」ということを証明するだけである。
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2004年2月17日(火) 「腐儒の言葉」
先日、地下鉄にて妙なアナウンスを聞いた。「二月十六日より、携帯電話について、お客様に乗車マナーの改めをお願い申し上げます。乗車中はマナーモードにして、優先座席ではペースメーカー等の医療器具に支障の出る恐れがありますので電源をお切りください。」いつから、マナーは期限付きで定められ、切り替えられるものになったのだろう。 マナーを仮に、その共同体の秩序を維持すべく集団の中から自然発生的に生れる暗黙の規則であるとするならば、メール待機状態の人間に満たされた電車の中で「携帯電話の電源をお切ください」などとアナウンスすることこそが、まさしくマナー違反である。 マナーを語るのにも、マナーは要る。したがって、「優先座席ではペースメーカー等の医療器具に支障の出る恐れがありますので電源をお切りください」の下りは、即刻撤回すべきである。 バレンタインデーに女性から男性へ贈られるものに、本命チョコと義理チョコという二種類がある。手紙に喩えるならば、本命チョコレートはラブレターであり、義理チョコは年賀状か暑中見舞いの如きものである。そして、一方ではそのチョコレートには既製品と手作りという二種類がある。したがって、手作りの本命チョコはわかりやすいのだが、手作りの義理チョコなるイビツなものまで贈られる。いわば、プリンタ印刷ではない、手書きの年賀状である。しかし、ここで女性が心得ておかねばならないのは、義理チョコの目的―すなわち「良い友達関係でいましょうね」というメッセージの伝達―ということに照らし合わせるならば、この労力のコストに対する対価は極めて低いということである。なぜなら、年賀状と同様に、義理チョコについての男性側の関心は九割九分「貰うか貰わないか」に注がれているからである。手作りか否かは、そこでは付加価値でしかない。 のみならず、時に手作りの義理チョコはマイナスの付加価値を帯びることもある。それは、贈られた男性がその女性に気のある場合である。男性がそこで「本命チョコはもっと想いのこもった一品なのだろうな」と想像してしまうのは、想像に難くない。この義理チョコが既製品であったならば、ストレートにそうはならない。この点において、義理チョコは年賀状と異なる。それは、いうまでもなく今現在、一月一日にラブレターを書かねばならないという風習が無いからだ。 掲示板アラシと呼ばれる人々がいる。インターネット上の掲示板にて、和やかに展開されていたやりとりを意図的に台無しにしたり、あるいは意味不明な文字列ばかりを書き込んだりして、まさに場を荒らす人々である。かような行為を被ると、当然それまで会話を楽しんでいた良識人は憤りを覚え「アラシはやめてください」としがなく頭を下げるのだが、しかし、そうなると逆に当のアラシは、酸素を吸った炎のようにますますヒートアップの一途を辿る。そして、そうした混沌の中、「アラシを注意するのは止めて、ふつうに話を続けましょう。アラシを注意する人も、やはり僕にはアラシなんです」と、なかなか理知的なことを言う良識人も登場する。しかし、そういうメタ良識人の多くは、自分がそうやってアラシを注意する人―つまりアラシ―を注意しているということに無自覚である。 したがって、アラシを止めさせるには沈黙しかない。しかも、個人プレーでは手ぬるい―というより、全く意味が無い。集団で一斉に沈黙するのが一番である。なぜなら、アラシが掲示板を荒らす目的は己の主張内容の承認ではなく、あくまで己の存在そのものの承認であるからだ。しかし、「ふつうに話を続けましょう」と呼びかける人は登場しても「みんな話をやめましょう」と呼びかける人は中々そこには登場しがたい。それは、おそらく掲示板という場所を訪れている良識人たちもまた、実のところアラシ的衝動を少なからず胸のうちに宿し、かつ、アラシ的衝動に駆られているからである。 アラシに対して取るべき態度には、大きく二方向が考えられる。一つは、アラシの排除を目的とするか。或いは、アラシの更正を目的とするか。第二の目的を遂行せんと実践するならば、良識人たちは、まさにアラシの気が済むまで、どこまでもアラシの愚行に応答を続けてやらねばならない。しかし、多くの良識人たちがそれをしたがらないところを見ると、おそらく良識人たちは第一の目的の下に、まさに「アラシなら他でやってくれ」と苦悩しているのだろう。その限りにおいて、良識人たちはたしかに良識は持っているかもしれないが、しかし善人ではない。あるいは、良識が足りない。 よく修行僧がお布施を受けて廻る姿―いわゆる托鉢―を街角などで目にするのだが、いうまでもなく、彼らの目的はお金などではない。彼らの目的は一つ、すなわち己の精神性をより高尚なるものに磨き上げんとすることである。したがって、お寺の門を叩かずとも、街角でお布施を集めなくとも、我ら一般人にも修行は可能である。たとえば電車に座っていて、乗車してきたお年寄りが目の前に立ったその瞬間、「なんか席を譲るのは自分が良い格好してるみたいだし」という弱音を乗り越えて腰を上げることと、寒空の下で過ぎ行く人々に延々とお布施を乞うこととは、つい自分に都合の良いように考えてしまうその甘ったれた性癖を矯正するという意味おいて、パラレルである。 したがって、お寺の修行僧ならともかく一般人の日常生活においては、己の甘ったれた性癖の発する腐乱臭をふと嗅ぎとってしまうという偶然なくして、修行の動機は生じ難い。したがって、何かはっきりとした目的を持ち、その夢に向って日々努力を重ねている人のその努力は、精神性を磨かんとするこの種の修行とは少し違う。重なる部分も少なくはないが、根本的なところで両者は異なる。すなわち、修行僧はいわば夢を棄てるために修行するのである。 同質のパフォーマンスに対して同等の待遇が為されない事態を差別と呼ぶならば、「女性専用車両」は明らかに差別的である。「同じ実績を上げているのに男性と女性とでは賃金が違う」と主張するのと、「同じ乗車料金を支払っているのに男性と女性とでは息苦しさが違う」と主張することは同等である。 とはいえ、痴漢から女性を守るという意味において、「女性専用車両」の存在意義は少なくない。したがって、この矛盾を問題なく解決するためには、いうまでもなく「男性専用車両」の設置が大前提となる。加えて、「女性専用車両」と「男性専用車両」の一車両内における人口密度は、客観的なデータに基づいて概ね等しくなければならない。それでもし車両が足りない場合は、車両を付け足さねばならない。それでもしホームの長さが足りない場合は、全駅で改修工事を行わねばならない。 ちなみに、車両内の片隅にある「優先座席」が赤ん坊や老人、あるいは身体の不自由な人「優先」であるのに対し、「女性専用車両」が車両丸ごと女性「専用」であるというのは、その限られた時間帯ということを考慮に入れてもなお、極めて憂慮すべき事態である。古来、日本語は「女子供」という表現を許してきたが、少なくとも車両内においては、今日もはや公的に「女」と「子ども」は同等ではない。 ちなみに、かように便利な「女性専用車両」があるにもかかわらず、一般車両に乗り込む女性は多く存在する。そして、「女性専用車両」が痴漢から女性を守るという目的の下に設置されているということを一般車両に乗り込む彼女たちが自覚しているのならば、つまり彼女たちは自分が痴漢されるかもしれないという危険を考慮に入れた上で一般車両に乗車することを、一つの意思決定による結果として選択したということである。ごく一部の男性による変質行為を「男性一般」の責任と見なした上にのみ成り立つ「女性専用車両」制度であるから、その制度下にあってもなお一般車両に乗り込む女性は、「女性一般」の一員として、男性乗客の全員を痴漢だと思い、身構え、冷や汗を流していなければならない。しかし、もし彼女らが概ね、かような緊張感を自発的に抱くことなどないというのならば、やはり「女性専用車両」は制度としてその理念と矛盾している。もし抱くというのならば、彼女らは「女性専用車両」を利用すべきである。
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2004年2月6日(金) 「近況についての走り書き」
また日記が空いてしまった。けれど、この一週間の空白はこれまでのそれとは少し違う。というのも、生活自体にはりというか、緊張感のようなものはそれなりに保たれていたような気がするからだ。書きたいことが何もなかったというわけではない。書く間がなかったのだ。この日記執筆が優先順位として後回しにされてしまうほど、別のことに気を奪われていたといってもいい。
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