2004年2月26日(木) 「感謝の心 A」

体育館の開け放たれた扉のところまで来ると、すでに人で埋め尽くされている水を打ったような場内の光景が僕の目に飛び込んできた。そして、その緊張感に満たされた光景は、会場の中に入らんとする僕の意思を見事にそのままかき消してしまった。ふと辺りを見れば、僕の他にも数人の先生と在校生がこの入り口に立って、厳粛に、空気の密度がここの数倍はありそうな館内の様子を、じっと眺めている。

会場内に深く意識を凝らすと、その重い空気をぐっと支えるかのように校長が遠く壇上に立っているのが見えた。しかし、その校長の姿も、程なくして段々と卒業生たちの姿で遮られて行ってしまった。担任に名前を呼ばれ、一人ひとり、返事をして席を立っていく。力の限り声を振り絞って返事をする生徒もいれば、教室の中と変わらないような小声で返事をする生徒もいる。仕方なさげに立っている生徒も中にはいるが、しかし、多くの生徒は胸を張って壇上の大きな校旗を見据えている。担任の声は続く。「名前を読み飛ばしたり間違えたりしないように」と、式の一週間以上も前から名簿の名前を呼ぶ練習をしていたこの担任の姿が眼前に重なる。「卒業式での担任の心境は我が子を送り出す親の心境に近い」とはよく言うけれど、その定説がある種の実感を伴って僕の全身をよぎったのは、この瞬間が生まれて初めてのことだった。

式は続く。卒業証書の授与は重々しくも淡々と進み、そうして、とうとう八組の番を迎えた。不甲斐ないながらも、僕が教鞭を振るったクラスだ。

「イケダっ!」

聞きなれた名前が呼びなれた順番で呼ばれ、見慣れた後姿が力強く立ち上がっては会場の視線を一身に集めていく。授業なんてお構いなしに騒いでいた彼ら、ふてくされて黒板を睨んでいた彼ら、熟睡して机にヨダレを垂らしていた彼らが、今はこんなにも勇ましく見えるのはなぜだろう。生徒の名前すべてが読み上げられると、

「廻れ、右っ!」

という担任の号令で、38名は一斉にこちらを向いた。

「礼っ!」

立派だった。気がつくと僕の両の掌は、何度も何度も、力強い音を彼らに向けて響かせていた。

式は、式次第に従い最後まで等速直線運動で進行した。式が終ると、僕は本館二階の職員室に戻った。しかし、職員室の中には戻らず、そのまま廊下に立っていた。廊下はすでに、式に参列できなかった在校生たちでにぎやかに埋め尽くされている。花束を抱えている女生徒たちもいれば、体育会系の男臭い集団もいる。この数分後、今日のヒーローたちがこの廊下を通過する。そして、その花道を彩るべく、僕たちは―生徒も、教職員も―ここで彼らの訪れを待っているのだ。僕の横には同じく非常勤講師の、僕とわりと仲のいい同僚もいる。僕と同じく八組と九組にて、彼は英語の授業を受け持っていた。

「アイツら、最後に蹴っ飛ばしたろか。」

「立場的に、ここではマズイでしょう。」

主役を待っている間、こんな無意味な会話を、足をそわそわ動かせながら僕らは何度も交わした。

出し抜けに、一階の方で歓声が上がった。花道は、体育館から本館一回を横断した後にこの二階へと延びている。程なくして、担任を先頭に一組の生徒たちが僕たちの前に姿を現した。すると、さっきまで辺りに霧散していたにぎわいは、あられのような拍手と化して惜しみなく彼らへと注がれた。まっすぐ前を向いたまますぎていく者。ただ歩いているだけといった感じの者。照れ笑いで顔がくしゃくしゃな者。涙をこらえて顔を覆う者。それぞれの想いを胸に、それぞれがこの花道をくぐり抜けていった。春の小川のせせらぎのように、1組に続いて2組、3組と、卒業生たちは次々と、穏やかに僕らの目の前を通り過ぎていく。中には、岸に跳ねた水しぶきのように、在校生に呼び止められる卒業生もいた。満面の笑みの後輩たちに囲まれ、手荒くも熱い祝福を受ける卒業生の多くは、髪の毛が長かったり、あるいは顎ヒゲがたくましかったり、概ね生徒指導部の目の敵にされていそうな連中ばかりだった。

時とともに、流れは激しさを増した。少なくとも、僕にはそのように感じられた。7組の生徒が過ぎ行き、次はいよいよ8組の生徒がやって来る。

「さぁ、いよいよ次はアイツらやなぁ。」

懲らしめてやろうといわんばかりに、同僚の中年先生は目を輝かせた。蹴っ飛ばすまではいかなくても、チョップの一つくらいはスキあらば決めてやろうと思っていた僕は、それゆえ、その返事の代わりにグッと息を呑んだ。階下で歓声が上がる。その歓声は、スタジアムで観衆の巻き起こすウェーブのように、見慣れた顔たちを連れてやがてこの二階へ届いた。先ほど式にて遠くから眺めていた姿が、今はすぐ目の前をよぎっていく。しかし、彼らの流れは思った以上に荒々しく、悲しいほど足早だった。僕はずっと彼らの表情を一つひとつ見据えていたのだが、しかし僕と目の合う生徒は一人としていなかった。この瞬間、僕はまさに観衆であって、花道との向こうとは見えないフェンスのようなもので明確に遮られているような気がした。続く九組も同様で、さしてその事情は変わらなかった。横を見た。「蹴るチャンスがなかったなぁ。」と笑う同僚の表情がどこか悲しげに見えたのは、僕自身がそんな表情をしていたからなのだろうか。

やがて花道は解かれ、二階の職員室前はいつものような静寂を取り戻した。僕は中に入り、学校から支給された弁当を食べることにした。さすが私立というべきか、卒業式の弁当となると想像以上に豪華だ。味わい深いだしまき卵から数の子、煮付け、赤飯、さらには鯛の刺身までもが、「寿」と刻まれた二重の箱いっぱいに盛り付けられていた。たしかに、美味しい。しかし、何かが足りない。この時、一人で黙々と箸を口に運び続けている自分の姿にある種の孤独を認めることは容易かった。深呼吸をするかのようにふと弁当箱から顔を上げると、職員室の方々で卒業生に囲まれている先生の姿が鋭くこの目に飛び込んでくる。多くは担任の先生だったが、しかしそうでない先生もいた。そうしてふと、僕の脳裏には、なぜか先ほど式にて述べられていた校長の式辞の一節がよみがえった。

「諸君はこれからも、どうか感謝の気持ちを忘れないようにして生きてください。人に感謝することの出来ない者は、人から感謝されることもなく、また逆に、人に感謝することの出来る者は、人からも感謝されるのです。」

 感謝。僕はこの言葉を、これまでごく表面的にしか捉えられていなかったのかもしれない。つまり、僕は今まで感謝というのは、自分にとってありがたいと思われる行為を具体的に自分へと向けてくれた相手に対して心から頭を下げることなのだと考えていたが、しかしこの時、この言葉の本質はもっと深いところにあるような気がしたのだ。人と人とを互いに幸福にする感謝の本質、それは具体的な行為に対してなどではなく、ただ相手がそこにいるということそのものに対して、本気で心をそこに据えること。本気で謙虚であること。そんな気がした。今、職員室のあちこちで卒業生たちから「ありがとう」の言葉を送られている先生の中には、彼らから普段は「嫌われ者」視されていた先生も少なくない。それは、たとえ「嫌われ者」だと思われようとも―あるいは「嫌われ者」と思われるくらいに―深く真剣に彼ら生徒たちと向き合い、本気で心を据え続けたことに対する、いわば必然的ともいえる結果なのだろう。

そう考えて、支給された豪華な弁当に独りで箸を突付いている自分の姿がひどく滑稽に思われて、それと同時に、いかに自分がこれまで「心、ここにあらず」のまま彼らに上辺だけの笑顔を振りまいていたのかということを、僕は痛感したのだった。そんな僕の唯一の救いは、廊下で偶然すれ違った家路を急ぐ卒業生たちから「おせわになりました」「寝てばっかやったけどゴメンな」と次々に声を投げかけられたこと、そして、手当たり次第に顔の見知った先生たちに声を掛けて回る人懐っこい九組の「問題児」に呼ばれ(彼は卒業式でも、名前を呼ばれると「ハイッ!」と強く声を張り上げ、パイプ椅子の上に起立した)、どうにか一枚だけ、彼と一緒の写真におさまることが出来たということだけであった。僕はその写真が欲しいと思ったが、しかし、それをもらう手段が、その瞬間はなぜかこの頭に浮かばなかった。自分のデジカメも、実は机の下のカバンに隠し持ってはいた。しかし、わざわざ取りに戻って「もう一枚撮ろう」と笑えるだけの器量が、恥ずかしながらこのときの僕には無かった。花道との間に感じたあの見えないフェンスは、他の誰でもなく、まさに僕自身が築き上げていたものだったのだ。

帰り道、八組の生徒三人と遭遇した。内の一人は僕を見つけると、笑顔で朗らかに語りかけてきた。

「先生、今までありがとうな。おれ、卒業したらバイク乗りまくるでぇ。今は金ないねんけど、やっぱ買うなら新車のほうがええかなぁ。」

何気ない雑談にも、この心は癒されていく。しかし、ふと後ろを見れば、残る二人はまるで心の距離を示すかのように、僕の後ろ数メートルを、間合いを取るような按配で歩いていた。バイク好きなこの生徒は、後ろを振り向いて友達に声を掛けた。

「おい、こっち来いよ。最後に先生とアツい雑談を飾ろうぜ。」

「いや、お前がもっと盛り上げてくれんと、何か俺らは会話に入りづらいし。」

彼らの冗談半分の掛け合いを、僕は黙って聞くしかなかった。駅までのいつもの道のりは、ひどく長く、そしてただっ広く、僕には感じられた。この経験を、活かそうと思った。今後、活かすしかないと僕は思った。

 



2004年2月21日(土) 「感謝の心 @」

「ごめんなさい。もうこの駐車場は満車なんで運動場の方へお回りください。」

 そう言って深々と腰を曲げると、ウインドウの向こうの、豪華な和服をまとったおばさんもまたこちらに丁寧にお辞儀をして、そのまま車をUターンさせた。買ったばかりのネクタイと一張羅のスーツに身を包んだ僕は、その車が校庭へとつながる一つ目の信号を左へ曲がりきるまで、赤いテールランプと黄色いウインカーとをじっと笑顔で見送った。空から降りそそぐ陽射しは透き通るほどに眩く、辺りを満たす朝のそよ風は温水のように柔らかい。校門前の駐車場、そこから入り口の硝子越しに校舎の中を覗けば、そこには多くの生徒たちが、ざわざわと、それでいてどこか緊張の面持ちをのこしつつ整列している姿がある。同僚の気さくな若手先生、塩ジイに似た事務室の老紳士と一緒に三人で緊急の駐車整理をしながらも、そうした若々しい光景に、気づけば僕は愛でるような眼差しを投げかけていた。道路を一本隔てた向こうの世界は、僕にはなぜかとても遠く映った。

「一年目から大変なクラスを受け持ちましたよね。しばらく忘れられないでしょう。」

「生徒らの方は、あの授業風景なんてもう忘れてる奴がほとんどでしょうけどね。」

 同僚の先生の冗談口調に、冗談口調で僕はこう返事した。時計に目をやれば九時半を少し廻ったところ。卒業生の入場が九時四十分からなので、ようやくこの駐車場を訪れる保護者も少なくなってきた。もちろん来週以降も僕らの学校での勤務は変わらずいつものように続くのだが、しかしなぜか今日は半ば自分が卒業を迎えたかのような心持で、その表情はお互いにすこぶる軽い。肩の荷が下りたという安堵感もあるが、一年を乗り越えたという達成感もあるが、僕らの頬を緩めたのはきっとそれだけではなかったと思う。ただその傍らで、事務室の塩ジイの表情だけがさっきからずっと、やや渋い。

「執行部の対応はいつも疎かや。今日だって保護者に『車で来ないでください』とか、『予め運動場を駐車場にします』とか知らせておけばこんなことにはならんのに、いつも後手後手。そのくせ、いつも威張ってるだけのボンクラは、堂々とこのいっぱいになった駐車場に自分の車を止めとる。きちっと仕切れる奴が出てこんと、この学校も危ないわ。」

 同僚が先に会場へと向かって僕と二人っきりになった時、塩ジイは僕にだいだいこんなことを、呟くように、それでいてさも憎憎しげに語った。意外だった。というのも、会議にしても朝礼にしても、この塩ジイは事務室代表としていつも校長や教頭の側に控えていたからだ。つまり、僕はこの塩ジイもまた権威ある執行部の一翼を大きく担っているものと思っていたのだ。それゆえ、僕は(その温和な表情の腹で何か良からぬことを上に告げ口されるのではないか)と、これまで彼には少々警戒的な態度さえとっていた。しかし、事務室と職員室の間にはどうやら確執じみたものがあるようだ。塩ジイの今の口調からは、それが容易に読み取ることが出来た。ただ、そんな塩ジイも、今年いっぱいでこの学校を去る僕に対しては却って好意的であった。急な駐車整理のためにこうして僕が学校内からほっぽり出されるような按配になってしまったことを詫びもしてくれたし、あるいは、未だ決まらない僕の進路を色々と気に病んでくれたりもした。

「先生はこの学校、今年限りで正解かもしれませんな。良い結果が出ることを祈ってますよ。おや、もう十時ですな。ここは私が見ておきますから、先生はどうぞ会場の方へお向かいください。」

 これまでも塩ジイから何度か校内にて、自らの進路について「良い結果が出ることを祈ってますよ」と語りかけられたことはあったが、しかし、その言葉に温もりを感じたのは今日が初めてだった。そして、僕はその申し訳なさにも似た気恥ずかしさを無理に覆い隠さんとするかのように、必要以上にやや深く頭を下げ、そうして校門へと細い道路を急ぎ足でまたいだ。視線の先の廊下に、卒業生たちの姿はすでに見えない。(続く)

 



2004年2月19日(木) 「腐儒の言葉 其の二」

嘘つき

 一般に、嘘を見抜くことに長けている人は嘘をつくのが上手である。なぜなら、嘘を見抜くことに長けている人は自分自身嘘をつくのが上手であるがゆえに、他人のつく嘘のパターンを、経験的に、まさに心情の動きのレベルから捉え尽くすことができるからである。

×

 したがって、たとえば嘘を見抜くことに長けている人が恋人の嘘を暴き非難するとき、その憤りの本質はただ個人的な自尊心の損傷であって、間違っても社会的に卑下されるべき相手の狡猾な態度などであってはならない。もしそこで相手のことを本気で卑下されるべき狡猾な人間であると主張するのであれば、そのような態度は同時に自らの狡猾な人間性を本気で主張していることになる。

×

 ちなみに、恋愛の相手として最も厄介なのは、嘘を見抜くことに長けてはおらず、ただ疑い深いだけの人である。

テロル

 テロルとは、あらゆる暴力手段に訴えて政治的敵対者を威嚇することである。したがって、かの某国が日本人を拉致した事件は、たとえ許しがたい国家的犯罪であったとしても、テロではない。なぜなら、事件発生から何十年経っても、その凶行に付随する政治的な威嚇や要求の類が、彼らから日本政府へ届けられることは無かったからだ。

×

 然して、本質的にテロではない事件をこうもテロだと呼びたがるその理由は非常に単純で、単に「こう呼んだほうが得だから」である。それはアメリカと親睦を深めるためであり、また自らが核兵器の脅威から免れんとするためである。

×

 したがって、「拉致はテロだ」と訴える限りにおいて、「救う会」の言動は原理的に茶番である。茶番などと言われたくないのならば、「救う会」は日本政府および世論に対して、当案件が「外交カード」扱いされていることにこそ先ず憤慨せねばならない。逆に、「茶番でも何でも良いからとにかく家族を帰してくれ」と切に願うのであれば、安易に正義を、つまり「拉致はテロだ」などと語るべきではない。なぜなら、拉致事件に対する日本人の憤りの本質は、おそらくテロという凶行への脅威というよりは、ただ自分と同じ日本人が連れ去られたという同情的な国民感情にあるからだ。かような日本国民に向って「拉致はテロだ」と訴え続けることは、かくも優しい国民感情を無視して、ただ打算的に、国民ではない誰かにのみ語りかけているかのような印象を却って聴衆に伝えてしまうからだ。

幸福

帰国した拉致被害者が幸福か否かなんて、帰国した拉致被害者にしかわからない。
そんな当たり前のこと、
何でこんなにも簡単に僕らは見失ってしまえるのだろう。

×

彼らは、彼ら自身の意思で日本に帰国したというわけではない。
そんな当たり前のこと、
何でこんなにも簡単に僕らは見失ってしまえるのだろう。

×

拉致被害者自身と「救う会」とでは、某国に寄せる感情が根っこの所で異なっている。
そんな当たり前のこと、
何でこんなにも簡単に僕らは見失ってしまえるのだろう。

×

「家族と暮らしたい」と悲痛に訴える涙からも、今現在の彼らは決して幸福ではない。
そんな当たり前の叫び、
何でこんなにも簡単に、僕らは「家族を帰してくれ」と解釈してしまえるのだろう。

拉致被害者を救う会

 「拉致被害者を救う会」は、文字どおり「拉致被害者」を「救う」会なのであって、「拉致被害者の会」ではない。さらにいえば、「拉致被害者を救う会」の中でも、現に自分の家族を取り戻した人とそうでない人とがいる。この事実は、情報としての価値こそ低いけれど、しかし我々の思考活動に与える緊張感を考えれば、非常に大きい。

×

 思うに、「救う会」の最大の矛盾は、拉致被害者を救うことよりも、先ず自分たち自身を救おうと考えている点にある。第二の矛盾は、それゆえ、そこに国家の介入を許したことである。

有名人

 有名人に似ている友人に対して、その友人が有名人に似ていると思うか、それともその有名人が友人に似ていると思うかで、その友人に対する認識は全く変わってくる。有名人は、たとえ同じ時代、同じ地上に存在しているとしてもやはりバーチャルな存在なのであり、一方の友人はリアルな存在である。したがって、友人を有名人に似ていると見なす態度は、本来リアルな存在をわざわざバーチャルな存在の如く扱うという点において、現実逃避的である。したがって、それは現実に目の前に存在している当の友人に対して、極めて失礼な態度だと言わざるを得ない。

×

 況や、自分で自分が有名人に似ていると悦に浸る人などは、もはや哀れ以外の何ものでもない。

女性専用車両

 痴漢は自然災害ではない。したがって、被災地における避難所の如く「女性専用車両」を設けることは、本質的な問題の隠蔽―あるいは愚策―にすぎない。すなわち、駆逐すべき痴漢を駆逐し得ない存在として前提としており、したがって対症療法ですらない。

×

 「女性専用車両へのご協力ありがとうございます」という車内アナウンスは、善良なる男性乗客をこの上なく嘲弄する言葉であり、正直に「皆様を痴漢だと疑ってしまいまして申し訳ありません」とこそアナウンスされるべきである。しかし、当の男性乗客は怒らない。それは、彼らが真に善良であるか、あるいは単に阿呆であるかのどちらかに拠る。

×

 状況的に見て、ラッシュアワー時に一般車両に乗車している男性の中に痴漢が孕まれている可能性よりも、「女性専用車両」があるにもかかわらず一般車両に乗車している女性の中に痴女が孕まれている可能性のほうが高い。

似非専門家

 どんなに一流の野球選手であっても、引退後、たとえばサッカーの解説をするなんてことは稀である。同様に、どんなに有名な宗教ジャーナリストであっても、彼が宗教以外のことについてコメントをしているのならば、我々はその発言に対して努めて懐疑的―かつ嘲笑的―にならねばならない。そこで語られる内容は、概ね美辞麗句に彩られた無味乾燥な一般論である。

×

 したがって、我々が最もリテラシー精神を研ぎ澄ませねばならないは、社会的弱者の語る商業的正義に対してである。

サポーター

 オフサイドのルールを知らない人間でも、サッカーに興奮することはできる。タッチネットの意味が分からない人間でも、バレーボールに熱狂することはできる。その条件はただひとつ、当の選手たちが日の丸を背負っているということである。

×

 「サポーター」という言葉ほど、欺瞞に満ちたものはない。競技場であっても、あるいはテレビの前であっても、戦っている選手を本当にサポートしている人というのは、せいぜい彼らの親戚縁者くらいのものである。ミーハーな人は試合の形勢が悪くなると容易にチャンネルを変えてしまうし、またコアな人であれば一つ一つのヘマに対して容赦なく罵倒の言葉を浴びせかける。いずれにしても、かような人たちは「サポーター」などではない。本質的には、あくまでただ日々の欲求不満を解消したいだけの「観衆」なのである。

共存

 「人はなぜ一人では生きられないのか」ということの理由を知りたければ、ウォークマンを聴きながら繁華街を歩いてみるのが一番である。そこで、少し自分の精神に力を込めて、眼前の光景を次のように見なしてしまうのだ―すなわち、ここに溢れかえっているのはみな意志を持った人間などではなく、ただ本能しか持ち合わせていない、いち生物としてのヒトなのだ、と。すると、髪の毛の色とか、パンツとシャツのコーディネイトだとか、瑣末なことに気を遣っているヒトビトのあらゆる様が、実に滑稽に見えてくる。それは愛犬家でもない人間が、ピンクの靴下やらキラキラの帽子に包まれたイヌを見るときの嘲笑に似ている。また、その会話―つまり鳴き声―がヘッドホンに遮られこの耳にまでは届かないおかげで、眼前のヒトビトは、たえず次の瞬間こちらの予想外の行動に出たり表情を浮べたりする。それは爬虫類の苦手な人間が、動物園の檻越しに眺める蛇の突発的な動きを目の当たりにするときの驚愕に似ている。しかし、いつまでも息を止めてはいられないのと同様に、いつまでも眼前の光景をこのように見なし続けることはできない。かくして、人は一人では生きられないのである。

×

 ただし、この実験は必ずしも「人を殺すことはできない」ということを証明はしない。ただ「殺し尽くしては生きられない」ということを証明するだけである。

 



2004年2月17日(火) 「腐儒の言葉」

マナー

 先日、地下鉄にて妙なアナウンスを聞いた。「二月十六日より、携帯電話について、お客様に乗車マナーの改めをお願い申し上げます。乗車中はマナーモードにして、優先座席ではペースメーカー等の医療器具に支障の出る恐れがありますので電源をお切りください。」いつから、マナーは期限付きで定められ、切り替えられるものになったのだろう。

×

 マナーを仮に、その共同体の秩序を維持すべく集団の中から自然発生的に生れる暗黙の規則であるとするならば、メール待機状態の人間に満たされた電車の中で「携帯電話の電源をお切ください」などとアナウンスすることこそが、まさしくマナー違反である。

×

 マナーを語るのにも、マナーは要る。したがって、「優先座席ではペースメーカー等の医療器具に支障の出る恐れがありますので電源をお切りください」の下りは、即刻撤回すべきである。

バレンタイン

 バレンタインデーに女性から男性へ贈られるものに、本命チョコと義理チョコという二種類がある。手紙に喩えるならば、本命チョコレートはラブレターであり、義理チョコは年賀状か暑中見舞いの如きものである。そして、一方ではそのチョコレートには既製品と手作りという二種類がある。したがって、手作りの本命チョコはわかりやすいのだが、手作りの義理チョコなるイビツなものまで贈られる。いわば、プリンタ印刷ではない、手書きの年賀状である。しかし、ここで女性が心得ておかねばならないのは、義理チョコの目的―すなわち「良い友達関係でいましょうね」というメッセージの伝達―ということに照らし合わせるならば、この労力のコストに対する対価は極めて低いということである。なぜなら、年賀状と同様に、義理チョコについての男性側の関心は九割九分「貰うか貰わないか」に注がれているからである。手作りか否かは、そこでは付加価値でしかない。

×

 のみならず、時に手作りの義理チョコはマイナスの付加価値を帯びることもある。それは、贈られた男性がその女性に気のある場合である。男性がそこで「本命チョコはもっと想いのこもった一品なのだろうな」と想像してしまうのは、想像に難くない。この義理チョコが既製品であったならば、ストレートにそうはならない。この点において、義理チョコは年賀状と異なる。それは、いうまでもなく今現在、一月一日にラブレターを書かねばならないという風習が無いからだ。

掲示板アラシ

 掲示板アラシと呼ばれる人々がいる。インターネット上の掲示板にて、和やかに展開されていたやりとりを意図的に台無しにしたり、あるいは意味不明な文字列ばかりを書き込んだりして、まさに場を荒らす人々である。かような行為を被ると、当然それまで会話を楽しんでいた良識人は憤りを覚え「アラシはやめてください」としがなく頭を下げるのだが、しかし、そうなると逆に当のアラシは、酸素を吸った炎のようにますますヒートアップの一途を辿る。そして、そうした混沌の中、「アラシを注意するのは止めて、ふつうに話を続けましょう。アラシを注意する人も、やはり僕にはアラシなんです」と、なかなか理知的なことを言う良識人も登場する。しかし、そういうメタ良識人の多くは、自分がそうやってアラシを注意する人―つまりアラシ―を注意しているということに無自覚である。

×

 したがって、アラシを止めさせるには沈黙しかない。しかも、個人プレーでは手ぬるい―というより、全く意味が無い。集団で一斉に沈黙するのが一番である。なぜなら、アラシが掲示板を荒らす目的は己の主張内容の承認ではなく、あくまで己の存在そのものの承認であるからだ。しかし、「ふつうに話を続けましょう」と呼びかける人は登場しても「みんな話をやめましょう」と呼びかける人は中々そこには登場しがたい。それは、おそらく掲示板という場所を訪れている良識人たちもまた、実のところアラシ的衝動を少なからず胸のうちに宿し、かつ、アラシ的衝動に駆られているからである。

×

 アラシに対して取るべき態度には、大きく二方向が考えられる。一つは、アラシの排除を目的とするか。或いは、アラシの更正を目的とするか。第二の目的を遂行せんと実践するならば、良識人たちは、まさにアラシの気が済むまで、どこまでもアラシの愚行に応答を続けてやらねばならない。しかし、多くの良識人たちがそれをしたがらないところを見ると、おそらく良識人たちは第一の目的の下に、まさに「アラシなら他でやってくれ」と苦悩しているのだろう。その限りにおいて、良識人たちはたしかに良識は持っているかもしれないが、しかし善人ではない。あるいは、良識が足りない。

修行

 よく修行僧がお布施を受けて廻る姿―いわゆる托鉢―を街角などで目にするのだが、いうまでもなく、彼らの目的はお金などではない。彼らの目的は一つ、すなわち己の精神性をより高尚なるものに磨き上げんとすることである。したがって、お寺の門を叩かずとも、街角でお布施を集めなくとも、我ら一般人にも修行は可能である。たとえば電車に座っていて、乗車してきたお年寄りが目の前に立ったその瞬間、「なんか席を譲るのは自分が良い格好してるみたいだし」という弱音を乗り越えて腰を上げることと、寒空の下で過ぎ行く人々に延々とお布施を乞うこととは、つい自分に都合の良いように考えてしまうその甘ったれた性癖を矯正するという意味おいて、パラレルである。

×

 したがって、お寺の修行僧ならともかく一般人の日常生活においては、己の甘ったれた性癖の発する腐乱臭をふと嗅ぎとってしまうという偶然なくして、修行の動機は生じ難い。したがって、何かはっきりとした目的を持ち、その夢に向って日々努力を重ねている人のその努力は、精神性を磨かんとするこの種の修行とは少し違う。重なる部分も少なくはないが、根本的なところで両者は異なる。すなわち、修行僧はいわば夢を棄てるために修行するのである。

女性専用車両

 同質のパフォーマンスに対して同等の待遇が為されない事態を差別と呼ぶならば、「女性専用車両」は明らかに差別的である。「同じ実績を上げているのに男性と女性とでは賃金が違う」と主張するのと、「同じ乗車料金を支払っているのに男性と女性とでは息苦しさが違う」と主張することは同等である。

×

 とはいえ、痴漢から女性を守るという意味において、「女性専用車両」の存在意義は少なくない。したがって、この矛盾を問題なく解決するためには、いうまでもなく「男性専用車両」の設置が大前提となる。加えて、「女性専用車両」と「男性専用車両」の一車両内における人口密度は、客観的なデータに基づいて概ね等しくなければならない。それでもし車両が足りない場合は、車両を付け足さねばならない。それでもしホームの長さが足りない場合は、全駅で改修工事を行わねばならない。

×

 ちなみに、車両内の片隅にある「優先座席」が赤ん坊や老人、あるいは身体の不自由な人「優先」であるのに対し、「女性専用車両」が車両丸ごと女性「専用」であるというのは、その限られた時間帯ということを考慮に入れてもなお、極めて憂慮すべき事態である。古来、日本語は「女子供」という表現を許してきたが、少なくとも車両内においては、今日もはや公的に「女」と「子ども」は同等ではない。

×

 ちなみに、かように便利な「女性専用車両」があるにもかかわらず、一般車両に乗り込む女性は多く存在する。そして、「女性専用車両」が痴漢から女性を守るという目的の下に設置されているということを一般車両に乗り込む彼女たちが自覚しているのならば、つまり彼女たちは自分が痴漢されるかもしれないという危険を考慮に入れた上で一般車両に乗車することを、一つの意思決定による結果として選択したということである。ごく一部の男性による変質行為を「男性一般」の責任と見なした上にのみ成り立つ「女性専用車両」制度であるから、その制度下にあってもなお一般車両に乗り込む女性は、「女性一般」の一員として、男性乗客の全員を痴漢だと思い、身構え、冷や汗を流していなければならない。しかし、もし彼女らが概ね、かような緊張感を自発的に抱くことなどないというのならば、やはり「女性専用車両」は制度としてその理念と矛盾している。もし抱くというのならば、彼女らは「女性専用車両」を利用すべきである。

 



2004年2月6日(金) 「近況についての走り書き」

また日記が空いてしまった。けれど、この一週間の空白はこれまでのそれとは少し違う。というのも、生活自体にはりというか、緊張感のようなものはそれなりに保たれていたような気がするからだ。書きたいことが何もなかったというわけではない。書く間がなかったのだ。この日記執筆が優先順位として後回しにされてしまうほど、別のことに気を奪われていたといってもいい。

いま、僕はある本を読んでいる。もっとも、この場で今その内容紹介をする気はなく(というより、紹介できるほどにはまだ読み込めていないので)、したがってここでは、それはオギュスタン・ベルクというフランス人の書いた『日本の空間文化』なる、ある分厚く小難しそうな文庫本だと言うに留めておく。まず傍線を書き込み、続いてその傍線箇所を中心にノートにまとめていく。大学の研究会時分以来の、僕なりのスタイルだ。友人に薦められて読み始めたのだが、タイトルの通りダイレクトには、たとえば国語の授業といった僕の仕事場の役に立つものではない。しかし、面白い。多少は分かりづらい所もあるけれど、しかし分かりづらいがゆえに、分かったときに何だか脳味噌にシワが一本刻まれたような気になって、快い。したがって、そこにあまり打算はない。

先月末に、三日連続の日記を書いた。正直、書き上げた瞬間、真っ先に思ったことは「僕は一体何が書きたかったのだろう?」という、あまりに無責任な一言だった。そして、いま読み返してみて改めて思うのは、「これは悲鳴みたいだな」ということだ。つまり、自らが俗だと感じる世界にどっぷりと浸かり、かつ、そのぬるま湯から腰を上げようなどはせず、そのだらしない態勢のまま、こんな態勢でいることに何らかの意義はあってほしい。そんなひどく調子のいい願望の吐露のように、今の僕には思えてならない。ただ、断っておけば、それでもあのように長々と書き連ねたことに対しては、後悔も、羞恥心もないばかりか、むしろ―あくまで個人的にはだが―あのように書き記せてよかったとさえ思っている。というのも、自らの彷徨っていた迷宮の見取り図の如きものを、結果としてあぶり出しのように浮かび上がらせることができたおかげで、自らの内に渦巻いていた形のない不安は、その後迫力を失うことになったからだ。

いま、「これは悲鳴みたいだな」と自らの日記を評した。このように評せるのは、きっと今の僕が概ね高尚な世界を現実に生きていると思われるからだろう。その大きな要因の一つは、先に挙げた、充実かつ納得した読書生活である。先の日記の最期に僕は、「今しばらく高尚というものについて思いを馳せていようと思う」と宣言したが、思うに、先ず、高尚は感じるものである。そして、高尚は、いつもある種の抵抗を孕む。そんなことを、このごろの僕は思う。抵抗の場に身を置くことなくどれだけ高尚について頭で考えたところで、きっと高尚には至らないどころか、考えれば考えるほどに、ますます分かりにくくなるだけだろう。抵抗。それは、心の囁き声の指し示す方向から吹いてくる向かい風を、真正面から顔面で受け止める時に感じるもののように思われる。人生の分岐点といった大それた舞台のみならず、日常生活の、ほんの小さな場面であっても、直観的に「いいな」と思う―というより感じられる―選択肢を選び続けること、いや、経験的には「嫌だな」という異臭を放つ選択を拒否しつづけると言ったほうがいいだろうか。そうすることのなかに、高尚の実感はあるとおもう。そこにしか、心地よい抵抗の場は生れないように思う。「天命」など今の僕にはまだ知る由もないが、きっとそうした選択の積み重ねの上にこそ、これが僕の「天命」だったんだと言わんばかりに、結果的には胸を張って過去と未来―そして現在―とを見渡せる景色が広がるのだろう。そんな気がする。

ただ、かような高尚を専ら追求し続けるだけの生き様が社会生活を営む人間(というよりは、さしあたり僕個人)にとって好ましいものであるか否かは、今の段階ではまだ保留せざるをえないのだが。ひたすら自分に美しく生きることと、他者と共に生きること。これは、相容れる気もするが、しかし相手によっては、どこか相容れない気もする。ただ、さしあたりの基本的な構えとして高尚に生きんと努めることには、僕はやはり素直に肯く。文字にしてしまうとどこか矛盾しているようであるが、この矛盾はもしかしたら僕の論理と感情の隔たりからきているのかもしれない。あるいは、まだぬるま湯に片足を突っ込んでいるからなのかもしれない。あるいは、その両方かもしれない。

というわけで、僕はここらで再びピリピリした読書の場にひとまず戻ろうと思う。走り書きにて、ご免。

 



【運営会社「パラダイムシフト」サービス】

無料ホームページ   携帯ホームページ   無料ホームページ作成   レンタルサーバー   ブログ   ホテル   アンドロイド   海外旅行   格安国際電話   レップチェッカー