2003年11月16日(日) 「同和地区に学ぶ―信夫の同和地区を訪れて」
「部落から人権文化のまちづくりの発信」というスローガンのもと、和泉の人権文化センターを拠点に活動している人権NPO法人「DASH(Developers Aiming for Self-fulfillment and Human rights)」の主催する研修会に、僕は一昨日、私立学校の初任者教員として参加した。「人権文化」とはすなわち人権というものを踏まえた文化ということであり、したがって、この「部落から人権文化のまちづくりの発信」というスローガンは、部落差別という人権侵害の一例を超えて、その一例を深く凝視することで、そこでの営みをさらに広く、例えば在日朝鮮人、高齢者、あるいは女性といった人たちの今日なお被っている社会的差別の撤廃へと活かしていくという姿勢にほかならないと、「DASH」の理事長である廣瀬聡夫氏は研修会の冒頭で述べていた。つまり、部落という、社会的に抑圧された場所に生きる人々がいかにしてその苦境と戦い、また少しずつではあっても克服してきたかという営みを冷静に見つめ、振り返ることで、その長年の苦悩や努力の結晶を、部落の人たちとはまた違った形で社会の不合理な矛盾に苛まれている人たちを救う鍵とせねばならないということである。
「人権とは発展する概念である」と廣瀬氏はいう。すなわち、憲法第十一条にも「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」とあるように、私たちが現在享受している基本的人権、例えば先日の衆院選のように成人として投票に行くことができるといったことなどは、すべて過去に生きた人々によって現在へと語り継がれてきた、ひとつの「不断の努力」の成果なのであり、したがって、この現在を生きる私たちもまた引き続き、人権をより発展させながら今後も未来へと語り継いでいかねばならないということだ。その上で氏は、部落問題といういわば「他者の人権問題」を、自らの人権を向上させるための鏡にしなければならないと説く。すなわち、部落との出会いをマイナスなもの、損をするものとして捉えるのではなく、逆にプラスのもの、新たな発見を導いてくれるものとして、社会全体で捉えていくべきであるというのだ。
講演の最後を、氏は「今日の研修の最後に感想を書いて頂きますが、『和泉の部落のことがよくわかりました』というコメントはあまり嬉しくないですね」と締め括った。いうまでもなく、それは今回の研修の主眼が「人権文化のまちづくり」にあるということの再確認だろう。もちろん、現在における「一般社会」と「部落社会」における生活水準(氏はこれを人権水準と同義に捉えていた)の格差を格差として認識することに意味がないということではない。意味はある。しかし、それだけではただ貴重な知識を獲得したということに留まってしまい、ゆえに「対岸の火事」の域を超えることが出来ない。氏は、「和泉の知識なんて知ってくださらなくてもいいんです」とさえいう。重要なのは「対岸」に同情することそれ自体ではなく、その同情を通じて、今後自分が様々な場面でどのように行動すべきかといったことを、自分の、「此岸」の問題としてリアルに考えながら、人権の発展に活かしていかねばならないことなのだろう。
約一時間にも及ぶ廣瀬氏の講演の後、四階の視聴覚室からエレベーターで一階に降りると、僕たちは次に、人権文化センターの一階に設置された「人権資料室」へと案内された。室内はさほど広くもなかったが、しかし、そこに展示されている物品やそこから伝わってくるメッセージはみな重厚なものばかりで、したがって、そこではけっして退屈など感じることは出来そうにない。「寝た子を起こすな」という従来の部落社会における生活態度への反省から、勇気と覚悟を以って、部落に指定された昔の区割りを示す住居地図が公開されたという第一歩を告げる新聞記事。若い頃に満足な教育を受けられなかった人たちが、年老いてから字を学ぶことを通じて実感したつらさや喜びを、たどたどしい文字と文章で綴った文集。台風の直撃でも受けたかのような、ボロボロで今にも崩れてしまいそうな木造住居の密集する場所で、それでも健気に生きるお年寄りを取材したドキュメント映像。実はこの日、僕は予定の時間より少し早く現地に着いたので、視聴覚室に集まる前に一人でこの資料室をすでに一通り見てはいたのだが、しかし、きっちり見ようとすればするほど、やはり時間はいくらあっても足りなくなってしまう。
さて、センターのスタッフから資料室の意義や設置の背景などについて簡単な説明を受けると、続いて僕たちは展示されているおばあさんの人形の前へと案内された。見ると、この人形のおばあさんは腰を曲げながら床に座って、何やらわらじのようなものを編んでいる。スタッフによれば、これは雪踏表(せったおもて)と呼ばれるもので、後の工程で裏側に牛革を貼り付けられる、いわば竹の皮で編まれた草履のようなものである。その隣のスペースには、今度はおじいさんの人形が置かれており、見れば、こちらは目を凝らしながら机に向かい、小さなビーズのようなものを糸に通す作業をしているようだ。スタッフによると、このビーズのような小さな球は真珠であって、ここ信夫に住む人々は、こうした雪踏づくりや真珠製造といった仕事に励むことを通じて日々の生活を支えてきたということだ。これらの産業は「部落産業」と呼ばれ、しかし言葉のイメージとは裏腹に、意外にも非常にお金になる仕事であったらしい。雪踏などは今でも一足数万円はするというし、また真珠の製造にしても、今のお金にして百万円にも相当する大金を、ひと月も働けば当時の中学生が手にしていたということだ。それゆえ、学校を出ても実社会で迫害を受けることを自覚していた信夫の人々は、若いうちに生活を支える技術を習得しておくためにも、幼い頃から、学業ではなく家の手伝いに励み、また励まざるを得なかった。室内にはその他にも、例えば1960年代のくらしが再現されたスペースなどもあり、バラックのような家屋と家屋の間の、本当に両腕も伸ばせないほどに狭い路地も再現されており、物理的にも窮屈な生活を強いられていた当時の人々の有り様が想像された。
程なくしてマイクロバスが駐車場に到着したので、僕たちはセンターの外へ出てバスに乗り込み、次に「ダッシュツアー」という、和泉のフィールドを体感しながら人権文化について考えるスタディーツアーに出掛けた。この「ダッシュツアー」には、それぞれテーマを持った十四ものコースが全部であるのだが、今回僕たちが参加したのはその中の一つ、「現代・人権と福祉のまちづくり」というテーマのコースであり、同和地区の中を実際に歩きながらそこでの福祉・人権文化の街づくりについて知るという内容のものだ。今日なお残された差別を見てもらうといったことにはさほど主眼が置かれていない点に、「人権文化のまちづくり」を提唱する主催者側の意図を強く感じる。
はじめて足を踏み入れる同和地区。本当はいけないことなのかもしれないが、やはり妙な緊張感を感じずにはいられない。車窓の向こう、歩道を歩いている人。対向車線ですれ違う車を運転している人。いけないことなのかもしれないが、きっと僕などには想像もつかないほどに重い宿命を背負ってこれまで生きてこられたんだろうと、つい特別な視線を送ってしまう。ただ、そうしているうちにも流れていく景色は、スタッフの人に「ここはもう地区の中ですね」と解説されなければ気づかないほどに、いわゆる「地区外」と何ら変わりは無いように見える。資料館で見たようなバラックもなければ、トラックも通れないほどに密集した家屋群も見当たらない。資料館が嘘をついているということでは勿論ない。嘘のような「不断の努力」が現実に積み重ねられてきたということだ。
ただ、そうした景色のなかでも一つ特徴を挙げるとすれば、それは住宅団地がいたるところに広がっているということだ。つまり、横に密集していた劣悪な住環境を改善するには、住居を上に積み上げるしかなかったということだろう。現代人の縮図である。バスを降りて、僕たちは団地を間近で見上げつつ初冬のつめたい風を肌で感じながら、スタッフの説明に耳を傾ける。それによると、ここに広がるたくさんの団地住宅にも構造上いくつかの種類があって、古い団地は屋根が平べったく、部屋と部屋が各階に一棟ずつ、縦に階段で繋がっている構造をしているのに対して、後に建てられたものは三角に尖った屋根をしていて、さらに部屋と部屋は横に、各階に何棟も繋がっている構造をしているということだ。なぜこのように団地の造りが変化してきたかというと、まず屋根については平らだと傷みが激しく雨漏りなどの修繕費がかさんでしまうということがあり、また部屋と部屋が縦ではなく横に繋がっているという点に関しては、近隣の人とのコミュニケーションが上下階だと取りづらいということがあるという。そして、ここで注目すべきは、同和地区におけるこのような必死の努力と知恵の結晶が、見事に地区外における住環境の発展にも大きく貢献しているということだ。いうまでもなく、過密な人口を抱えながら、地域の繋がりも希薄化するなかで高齢者の孤老死問題も顕在化しつつある今日の大都市にあって、部屋と部屋が各階に一棟ずつ、縦に階段で繋がっているような構造の団地は、特定の意図がない限りは、もはや新築されることはないだろう。ここでもう一つ例を挙げるならば、この地区には国から保護されている関係上比較的安い医療費で済むということもあり、地区外からも数多くの患者が来院する、優れた技術を誇る眼科医院がある。眼科の発達する街。その背景には、資料館にもあった真珠の製造という目を酷使せざるをえない部落産業の歴史がある。たしかに、ここには「部落から人権文化のまちづくりの発信」を見て取ることができる。
団地の前を通り過ぎると、次に保育園の前で足を止めた。二棟並んだ保育園。その理由をスタッフの人は、一方の建物は機関紙を発刊するなどの事務的な用途に充てられているだとかいっていた気もするが、しかしよく覚えていない。このとき僕の記憶を妨げたのは、そして今でも僕の目に焼き付いたまま離れないのは、フェンス越しに広がっていた、あの、園児たちの姿である。保母さんに転がされたボールを必死に追いかけていた。けんかでもしているのか、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。どこからどう見ても、普通の、いとおしい、園児である。彼らに罪はない。否。この地区そのものに、罪などない。なのに、これから彼らが背負っていくであろう理不尽な苦難を想うと、胸の詰まる想いがした。のみならず、そうした園児たちを前にして、ボールペンを片手に握り締めながら、輪になってスタッフの人から説明を聞いているこの自分たちの不自然な姿。居たたまれない。彼らはこれから生きていく中で、その日常生活において何度もこのように不自然な「観察者」を目にする。何度も目にすることになる。そして、その不自然さゆえに「なぜ?」という素朴な疑問が生まれる。そうして、尋ねられた親は子に、そして自分自身に向けて、その理由を正確に語らねばならない。重く、暗い理由である。「寝た子を起こすな」とは、たしかに正論ではないのかもしれない。しかし、それを正論ではないといっていいのは、先ずはその寝た子を起こすことのつらさ、過酷さを覚悟の上で乗り越えていかねばならない人たちに限られるのではなかろうか。地区外に生きる僕たちにできることは、僕たちのすべきことは、ただそうした人たちの悲痛な覚悟を暖かく受け容れるということであって、けっして彼らに「寝た子を起こせ」と怒鳴りつけるようなことではありえない。だから、僕もいつまでも「居たたまれない」などと歎いてばかりはいられない。僕もまた彼らと、そして己の醜さと対話を重ねながら、この居たたまれなさを乗り越えていかねばならないのだ。そう想う。
その他にも、ここには記しきれないほどたくさんのこと、そして言葉にできないほど深いことを、この研修を通じて僕は学んだような気がする。しかし、ここで本稿を「和泉の部落のことがよくわかりました」と締め括ってしまっては、主催者である「DASH」理事長廣瀬氏の趣向にも反することになってしまうだろう。この経験を、彼らへのこの想いを、自らの今後の人権の発展に活かしていかねばならない。部落社会に生きる人たちのように、その程度の差こそあれ、社会の矛盾に苛まれている人々は数多くいる。僕の身の周りにだっている。たとえば、不登校児。いじめられっ子。そして、いじめっ子も。和泉の同和地区は、自らの虐げられた状況を痛々しくも自覚しつつ、地区外、ひいては行政と手を取り合いながら、ささえられながら、しかしけっして甘えることなく「プラスの出会い」を創り続けて今日まで来た。なればこそ、僕もまた、不登校児やいじめられっ子と手を取り合いながら、彼らとの出会いを心からプラスのものであるといえるものにしていかねばならないのだろう。彼らの立ち直る手助けをするとともに、同時に彼らの努力にまた僕は学ばねばならない。いじめられっ子に「強くなれ」と正論を浴びせかけることだけが仕事ではない。いじめられっ子が自分を大切に想い、自分から「強くなろう」と思えるようになってこそ、その仕事は成功したといえるのだろう。人権教育の基本は生徒と教師の対話にあるように思われる。なればこそ、教師である僕もまた生徒一人ひとりの歴史に心を沿わせんと悩み、苦しみながらでしか、生徒たちに人権を語ることは出来ないのではあるまいか。沿わせられるか否かではなく、いつまでも心を沿わせんと悩み、苦しむこと。その奥に、救いに繋がる鍵がある。そう信じたい。
2003年11月11日(火) 「味わわせる側に立って」
「先生のおかげやわ。」
満面の笑みでそう言われて、思わず頬に全く力が入らなくなってしまったことを、今でも鮮やかに覚えている。昨日のことになるが、昼休みに職員室で勉強しながらノートをとっていると、見慣れた顔の生徒が静かに、それでいて弾むように、こちらへ近づいてきた。この日記にも記したが、小論文を個人的に一週間ほど指導した、あの生徒だ。連休明けにはもう試験の結果が出ているということは知っていたものの、なにぶん場合によってはデリケートな問題でもありうるようにも思われて、こちらから「どうやった?」と図々しく訊く気にもなれず、少々気にかけていた矢先の来訪だった。もっとも、普段どおりの力さえ発揮できれば落ちるはずがないと信じていたので、この朗報を耳にした瞬間も、驚きといった感情は殆どといっていいほど、この胸中に沸いてくることはなかった。
しかし、それでも感情の昂ぶりは隠せない。隠しようもない。予期していた結果とはいえ、気がつけば僕は席を立ち上がり、気がつけばこの生徒と強く握手をしていた。
「何いってんねん、お前が頑張ったおかげやろ。」
けっして謙遜などではなく、言葉を選んだわけでもなく、気がつけば僕は彼に向かって僕はそのように笑っていた。よくよく考えれば「お前の成功はお前のオカゲ」なんていうのはもしかしたら少々おかしい日本語なのかもしれないが、その瞬間にはこんなことに気づくはずもない。おそらく、これが教師冥利というやつだろう。もしかしたら、ほんの一週間少々の恩など、ものの数週間の間に彼の記憶から消え去ってしまうかもしれない。いや、きっと消え去ってしまうだろう。それでも、自己満足にも、僕は彼の笑みをこの記憶からずっと消すことはない。消えて欲しくない。そう思う。報告を済ませると、彼はまた静かな足取りで、しかしやはり軽やかに、職員室から去って行った。このように朗報を耳にするシーンは実のところ連休中すでに予め想像していたことではあったので、僕の予定では握手の後に「大学に行ったら、妥協せずに、精進せえよ」と強く肩を叩いてやるつもりだったのだが、現実の僕はただみっともなく、終始ニヤニヤ立ち尽くしているだけだった。おめでとう!
そうして、その感動に酔いしれながら家路に着くのだが、しかし、昨日も今日もドスッとこのパソコンの前に腰を下ろすと、頭から冷や水をジョウロでさあっと引っ掛けられたかのうように、自分が次第にシラフへと戻っていってしまうのがよくわかる。というのも、この高鳴りをホームページにぶつけようと思ったら、自ら記した小説調の日記が、尻切れトンボのような格好のまま画面の上でもがいているからだ。まがいなりにも半年以上この日記を記し続けてきたこともあり、文章を書くということには十分慣れているつもりではあったが、しかし小説調で書くとなると、さすがに筆が、止まった。さきに「職員室で勉強しながらノートをとって」いたと記したが、いま僕は一人の時間の合間を縫って小説の教え方について勉強している。阿部昇という人の書いた「力をつける『読み』の授業」なる本をノートにメモしながら読んでいるのだが、そのメモの箇所が増えれば増えるほど、小説というものは実に奥が深いのだということを思い知らされる。最も基本的なリズムである「起承転結」についてはこの日記でもごくごく簡単には触れたけれども、その「起承転結」それぞれの箇所のもつ一般的な意義、およびそこで着目すべき点について、あるいはその他「起承転結」以外にも読み取っておかねばならない数多くの点について深い分析がなされおり、その内容をここで事細かに記すことは出来ないが、僕の感想としては、本書はやはり非常に刺激的なものであるといえる。
それゆえ、迷う。
この、実に刺激的な授業参考書は、もちろん授業参考書である以上、教師の立場から、すなわち「どう読むべきか」という視点から文学作品について解説されている。しかし、ここで視点を少々スライドさせたとき、この刺激的な授業参考書は一変して「どう書くべきか」という問題について具に考察を重ねている書物ということにもなるのだ。たとえば、「文脈の読み取り方」ということに関連して、「広い意味の同質の形象の繰り返しによって、その延長線上に主題が浮かび上がる」といった留意点が本書には述べられていたりするのだが、この言葉を書く側から受け止めるならば、それはそのまま「広い意味の同質の形象の繰り返しによって、その延長線上に主題を浮かび上がらせねばならない」というメッセージに変わる。それゆえ、「灰色のネコ」なる、くすぶる煙のように頼りない我が小説の行く末に、非常に迷ってしまうのである。
ただ、そうはいっても、実はこうした事態を僕はさほど悲観的に考えてはいない。正確には、このように悩むことができて心底良かったとさえ思っているのだ。なぜなら、これはまさに生みの苦しみとでもいうべきものであって、こうして趣味において文章を書く為というのみならず、やはり責任ある仕事として、生徒たちに深く文学作品を味わわせる為にも(それは即ち自分が人生をかけて歩まんとする道を実りあるものにする為にも)、けっして避けて通ってはならない壁のように思われるからだ。
これはきっとあらゆることに当てはまることなのかもしれないが、味わう側から味わわせる側に回ってみて初めて、今まで味わってきたものの隠し味というか、凄さというものに、リアルに気づくことができるようなるのだと思う。料理でも、音楽でも、絵でも、もちろん、文学でも。そして、そのように考えれば、僕がこれまで評論文や小論文の指導にはさほど苦手意識を持っていなかったというのも、強ち尤もなこととして肯けなくもない。というのも、不徹底ながらも、僕は大学にて頭の痛くなるような論文を幾度となく目にしてきたし、また同時に目も痛くなるような論文のようなものを、幾度となく実際に書きもしていたからだ。なれば、こうして文章を発表する場があり、頭を抱える機会があるということには、やはり素直に喜ばなければならないだろう。悲観的に考えるなどとんでもない。なぜなら、それは、未来の生徒の、自分自身の笑顔に繋がるはずの痛みに違いないからだ。
「妥協せずに、精進せえよ。」
合格を決めた彼に云いそびれた言葉が、この胸の中に取り残されたまま、今日も僕の中に響いている。
2003年11月8日(土) 「短編小説風日記『灰色のネコ』 第一回」
ガタン、ガタンゴトン、ガタンゴトン…。
窓の外から部屋の中へと割って入る重いリズムに両目をこじ開けられるような格好で、郷介は目を覚ました。大阪駅まで徒歩10分の距離にそびえるマンションの最上階の一室。日当たりも見晴らしも申し分ないのだが、環状線の駆ける線路までもがこの部屋の窓から何の障害物もなく見渡せてしまうために、ここで暮らしている以上、数分に一度はダイレクトに届けられる列車の無骨な“足音”にも耳を傾けなければならない。そして、彼は勿論この騒音がはじめこそ嫌で嫌で仕方なかったのだが、ただ、暮らしているうちにこの住環境への適応ということに加えて、この立地が非常に恵まれたものであるということを身に染みて実感するようになり、したがってこの頃はさほどこの騒音のことを気にもしなくなっていた。これも現代人の背負うべき悲しい宿命なんだろう、と時にぼんやり思い浮かべながら、今日もこの部屋に甘んじて暮らしているのである。
郷介がこの部屋に越してきたのは今年の四月なので、もう半年以上も前のことになる。それ以前、彼は東京にいた。東京の私立大学で人間科学を専攻し、そうして今春からはこの15階の実家に棲みつきながら大阪の私立高校で非常勤講師をしている。幸い、今日は第二土曜日にあたり勤め先の学校は休みなので授業もなく、それゆえ目覚まし代わりの携帯電話がけたたましく鳴ることもなければ、母親がズケズケと部屋の中へと起こしに来ることもない。そういう意味でも、彼を淡い眠りから現実へと連れ戻すこの騒音は、たしかに騒がしくはあるけれど、しかしさほど不快なものでもなかったのだ。
起き上がると、郷介の耳には隣の部屋から何やら話し声がふたつ、漏れてくるのが聴こえてきた。姉と、おそらく姉の女友達だろう。昨夜遅く、ちょうど眠りの世界に足を踏み入れようかという時に、ガチャッガチャッと玄関の開く音がしたことと、そこから小さな足音と話し声とがそのまま隣の部屋へと流れ込んでいったことを、彼はふと思い出した。彼は、来客というものをどうにも歓迎できない質だった。なにも嫌悪感だとか、排除してやろうとか、そういった激しい敵意のような感情を抱いてしまうということでは決してなくて、ただ家の中ですれ違ったり、あるいは挨拶したりするということがどうにも好きになれないのである。もしかしたら、まだ彼が小学生になったばかりの頃に、夜分遅く酔っ払った父の連れてきた酔っ払いの友人に礼儀正しく挨拶したところ、その返事に満面の笑みでアルコール臭いヒゲをジョリジョリと顔に擦り付けられたという原体験に、この性癖は起因しているのかもしれない。なんにしても、そういうわけで彼は姉の友人がしばらくは話に夢中で姉の部屋から出てくる様子のないことを確認した上で、着替えの新しいトランクスだけをつかむと足早に浴室へとシャワーを浴びに向かった。寝起きのシャワーは彼が学生の頃から続けている、いわば眠気を洗い流す「禊」のような儀式であり、今ではすっかり一日の始まりを自らに宣言する習慣として根付いてしまっている。
熱いシャワーを全身に浴び終えると、いつもなら素っ裸のまま脱衣場にある洗面台にそのまま向かって歯を磨くところなのだが、今日は客人が見えているということもあり不意の遭遇に用心するという意味で、新しいトランクスの上にしわくちゃのパジャマを着直した上で、鏡の向こうの自分と目を合わせることにした。連日の疲労のためか、いや、きっとそんなんじゃないだろう、とにかく連休を迎えたという活き活きとした輝きを、郷介はそこに認めることができなかった。連休といっても、特に誰かと会う約束もなければ、どこかへ出掛ける用事さえ見当たらない。むしろ家の中でやるべきことのほうが彼の脳裏には詰まっていて、今日も彼の部屋の窓際にある机の上には「力をつける『読み』の授業」なる授業参考書とそのノートが開かれっ放しになっている。彼は勤め先の学校では国語を教えているのだが、昨今はもうすっかりこの大阪での講師生活に馴染み、精神的にも時間的にも余裕が生まつつあるということもあって、ここらで教科書備え付きの指導書に操られるがままだったこの半年間を反省して、自分なりの教え方というものを模索し始めねばならない、という意気込みが、このところ彼の胸にはタバコの煙のようにくすぶりながら充満しているのだった。それゆえ、ネバネバした寝起き顔の歯と歯茎とを叩き起こすかのようにブラシをゴシゴシ左右させている間も、彼は今朝も昨夜遅くまでノートにまとめた内容を知らず知らず頭の中で復唱していた。
ガラッ。
その時、出し抜けに洗面所の引き戸が開けられた。開けたのは、姉の友人だった。そのことを、郷介は振り向くことなく瞬時に確認した。いや、正確には気配で瞬時に確認してしまったからこそ、そこで敢えて振り向いて目を合わせるということを拒否したといったほうがいいだろう。相手は友人の家にお邪魔している身、自分とは初対面、しかも今この引き戸を引いたのは彼女。そこまでのことをこのほんのわずかな間に頭の中で羅列してしまった彼は、年下であるにも関わらず堂々と無言のまま鏡を見つめながら歯を磨き続け、彼女の反応を待つことにした。そうすると、案の定、彼女は猫のように素早く引き戸を閉めながら、
「ゴメンナサイ!」
とだけ言い放ち、郷介の歯磨き粉交じりのこもった返事を聞き終える前に、姉の部屋へそそくさと帰っていった。次の瞬間、その壁の向こうからは今の恐縮しきった口調とはまるで異なる、姉に向けられた朗らかな照れ笑いが聴こえてきた。その声に何となく耳を傾けていると、程なくして声は止み、もう一度洗面所の引き戸が開けられた。今度はそこに姉がいた。
「いま起きたんや。」
「うん、さっきな。」
それだけの言葉が交わされると、引き戸は再び閉じられた。おそらく姉は自分が気まずく思っているといけないだろうと察して、わざわざ洗面所に顔を出したのだろうと、郷介は歯を磨きながら想像していた。そうして、引き戸が閉じられた後もしばらく、鏡の向こうの、しかし今では姉の危惧とは裏腹に少し満足げな表情をしているようにも見える自分の顔を、彼はそのままぼんやりと眺めていた。
(上々のスタートだ。)
郷介は心の中でこう呟いた。彼は、不意に引き戸を開けられても何ら動揺しなかった自分の姿を思い出していた。さらには、動揺しなかったどころか、あたかも予めこのような不測の事態を予期していたかのように新しいトランクスの上にしわくちゃのパジャマを着たおのれの選択をも思い返し、これまでどこか生気に乏しかった寝起き眼にも、ほんの少しだけ、明るさのようなものが灯ったように見えた。しかし、そのほんのわずかな表情の緩みも、口の中いっぱいに溜まった白い泡を水と一緒に排水溝へと吐き出す頃にはもうすっかり消えてしまっていた。手拭タオルで口元を拭い、くしゃくしゃのトランクスを洗濯籠へ投げ込むと、彼はそのまま乱れた布団の敷かれっぱなしになっている自分の部屋へ戻っていった。(続く?)
2003年11月2日(日) 「連休」
はや11月。このところ時間の流れがひどく早くて溺死寸前だっただけに、この連休はものすごく有り難い。一息つけるというのもあるが、それよりもまずこの二日間で僕がしなければならないことは、連夜の日本シリーズ観戦などで緩みきったこの生活態度の引き締めを行うことだ。教材の研究や小テストの採点など、後手後手に回っていた仕事に対して先手先手に打って出る姿勢と整えねばならない。この日記を記すことがその第一歩だと思われるほどに、このところ自分の足をきちんと地につけて歩けていない気がする。
しかし、時間の流れは人それぞれであって、おぼれかけのみっともない平泳ぎの僕の周りでは受験生たちが対岸を見据えながら必死にクロールしている。この時期はいよいよ推薦入試が本格的に始まる時期でもあり、昨日も放課後わざわざ職員室の僕のところまで小論文の指導を受けるべく生徒がやってきた。実はこの一週間ほど毎日、個別指導という形でこの生徒の小論文を添削しているのだが、その主体的な集中力ゆえか、非常に飲み込みが早い。
僕が小論文というものを意識して本格的に勉強したのは、高校卒業後の浪人時代のときだった。予備校にて、一つの課題文からまったく結論が正反対の模範解答を書き上げる講師の先生を目の当たりにして、そこで問われているのは意見そのものというより、あくまで論理なのだということを痛感したのを今でも覚えている。つまり、どんなに見栄えのいい結論で文章を締め括ったとしても、そこに至る論理構成が稚拙であれば小論文としての評価は低くなるであろうし、逆にものすごく地味で一般論的な結論であっても、その論理展開がスムーズであればそれなりに高く評価されるということだ。それゆえ、指導する側に回った僕は、これも至極ありきたりな指導法といえばそうなのだが、まずはいわゆる「起承転結」という論理構成を徹底させることにしている。もちろん、さしさわりのない文章を書かせるためではなく、あくまで論理的な文章を書かせるためだ。
僕は、小論文というのは紙の上での面接試験だと思っている。しかも文字通り小さな論文である以上、それは日本シリーズのようないわゆる“短期決戦”の一種である。時間も文字数も限られたスペースのなかで、どれだけ自分という人間をアピールできるか。そう、アピールの場なのだ。それゆえ、生徒にもまずはそのように理解させた上で、次に「起承転結」の説明に入る。ただ、実をいうとこの「起承転結」というのは本来中国の漢詩におけるルールなのであって、ゆえにそれは詩や小説のようなリズミカルで情動的な文章にこそ相応しく、むしろ論理性を重んじる小論文においては「序論(問題提起)・本論(考察)・結論(主張・見解)」の三部構成こそが基本である。しかし、先にも述べたように、やはり小論文は単なるメッセージの伝達の場ではなくひとつのアピールの場であってほしいという想いが僕には強く、ただその想いのあまりに論文の基本的な三部構成を疎かにさせてしまっても無論いけないので、生徒にはいわば「序論・本論1・本論2・結論」のような「起承転結」的四部構成を意識させることにしている。ただし、受験を目前に控えている生徒にこんな個人的なこだわりを熱く語ったところでもちろん通じるはずもなく、ゆえに実際の説明の際には、先に述べた「小論文というのは紙の上での面接試験だ」という認識に立ち返った上で、非常に打算的な言い回しながら「四部構成は人間を大きく見せるための手段」だと説く(心の底では「大きく見せるための手段」ではなく「大きくするための修行」だと僕は思っている)。つまり、「本論1」で自分の主張とは相対する見解に対して譲歩的にある程度まで考察を加えておくことで、自分は言いたいことをいうだけの人間ではないのですよということを採点官にアピールしておけ、ということだ。そして、初めにそのように教えておくと、言葉づかいや文法といった細かい指導もやりやすい。面接会場にパジャマや普段着でいく人間はまずいない。だから、小論文上で話し言葉や変な日本語を用いたときは容赦なく赤ペンを入れられるし、生徒も「間違いだから」というのではなく「無礼だから」という理由でもって、納得してその赤ペンの意味を理解してくれる。そうこうしているうちに、当の彼は日付でいうと明日の月曜日が試験日なので、小論文の個別指導は昨日で終わった。緊張してミスさえしなければ足を引っ張ることはないだろう。健闘を祈っています。
昨夜は、そんな流れから、久しぶりに本棚から自分の卒業論文を引きずり出して開いてみた。800字の小論文ではなく、60000文字以上の大きな論文。ただ、では内容も大論文かといえば決してそうでもなく、久しぶりに読み返してみて改めてそのアピール性のなさを恥じた。トツトツと、当時の僕の頭にあった考えを終始整頓しながら羅列するのに精一杯という按配だったからだ。ただ、情けないながらというべきか、この半年以上昔に書いた自分自身の意見に現在の自分自身が感心してしまうといった瞬間もいくつかあった。もっと正確にいえば、論文で何気なく用いていた言葉の重みというものを、卒業してからのこの数ヶ月間における経験を通じて改めて思い知ったというべきだろうか。もちろん、執筆当時においても可能な限り現実的な場面を想像しながら言葉を用いたつもりではあったが、如何せんその経験が当時の僕には足りなさすぎた。たとえば、論文の「結論」部分にあたる章の冒頭で、僕は小生意気にも「現代的課題」として「自らを深く、強く生きているのだという確信に導くような漲る力の感覚を、人為的に物象化された非自然的な価値意識、すなわち自然を捨象した幻想のなかに身を埋めることで、結果として希薄化させてしまうという営み」を挙げているが、これなどはまさに、生活態度の緩みきった今の僕のことだ。パソコンから横へ目をやれば、一昨日購入したばかりのコートが目に入る。東京での一人暮らしから実家でのパラサイト生活に転じたがゆえに比較的財布の暖かい僕は、バーゲンシーズンを待たずに今頃から百貨店をうろついてはこの冬に着るべき通勤用のコートを吟味した挙句、購入までしてしまった(いってみれば、これも学校の仕事が後手後手に回っていた大きな原因でもあったのだ)。「自然を捨象した幻想」たるブランド、あるいはデザインといったものに心を奪われ、結果として「深く、強く生きているのだという確信に導くような漲る力の感覚」を溺死寸前のような毎日に垂れ流しにしてしまっていたのである。また、この指摘は僕自身のみならず、日頃から接している生徒たちにも当てはまることで、彼らからたまに個人的な悩みの相談を受けるときも、その悩みの根底には「自然を捨象した幻想」が渦巻いていることが多い。つまり、極端な話「いかにして友人と顔を合わせずして友人と仲良くなれるか」といった類の相談事なのである。半年前の自分の言葉は、思いのほか重い。
「自然を捨象した幻想」に陥ることなく、「深く、強く生きているのだという確信に導くような漲る力の感覚」を持ちながら生きること。これは言葉にすれば簡単であるが、現実に実践しようと思うと非常に難しい。というよりも、正直にいうと、はっきりと想像できない。はたして、今の自分はこのような感覚を持って生きているのだろうか。生きていないとすれば、過去には生きていた時期があったのだろうか。思うに、四六時中このような感覚のままに生きられる人は、いないか、いたとしても一般に「天才」(あるいは「阿呆」)と言われるような、極わずかな人たちだけなのではないか。もちろん、だからといってそのように考えてしまうことで開き直るわけでは決してなく、むしろそのように考えてしまうからこそ、いよいよおのれの俗っぽさが嫌らしく感じられて仕方がない。先日、東京都の教育庁から「補欠合格」の通知を頂いたことはこの日記にも記したが、この卒業論文を提出した大学での恩師に手紙でその旨を伝えたところ、その返事の手紙にて、案の定「おめでとう」などといった言葉は一言もなかったのだが、その代わりに「君が君であるためには何をすべきなのでしょうか」という問いかけを頂き、恥ずかしながら少し狼狽してしまった。このまま必死でもがきにもがいたところで、僕にしか成し得なかった軌跡など何も残らないかもしれない。本当に、教師という選択に欺瞞は含まれていないだろうか。ただ、それでも今は、あの小論文を指導した生徒が「ありがとうございました」と深く頭を下げ、笑顔で職員室を後にしたその光景を胸に焼き付けながら、もうしばらく、もしかしたら死ぬまで、この「深く、強く生きているのだという確信に導くような漲る力の感覚」というものを模索し続けようと思っている。欺瞞ならたしかに欺瞞であると、胸を張って宣言できるくらいに自分を大きなものに磨き上げる以外に道はないような気が、今の僕にはしているので。