2003年8月18日(月) 「そわそわ」

このところ日記をつけていなかったので、いま久しぶりに日記をつけようとしているのだが、正直いって何かを「書きたい!」という衝動に駆られているわけではない。ただ、何も書かないというのも少しきまりが悪い気がして、そういう中途半端な気持ちを書き留めておくことも今しかできないことだろうと思い、いまキーボードの上、何本かの指を急ぎ足で滑らせている。

何かを「書きたい!」という衝動に駆られているわけではないといったが、「書きたい!」と思っているネタはけっこうあったりする。石川県への一人旅、波の音と電灯のジジジという音の他には何も聴こえてこない静かな民宿の一室でしたためた走り書きの日記は、軽く五ページほどは生まれたての汚い文字で埋め尽くされている。それをそのままページに写そうかとも思ったが、それはどうにも今現在の自分にとってリアルじゃないからやめた。その代わりに、写真コーナーみたいなものを作ってみた。あの写真をみてそこに物語を読み取ることができる僕としては、文字を書き連ねるよりも一枚の絵を差し出したほうが自らの経験を具に表現できた気にもなるのだが、そんなのはいうまでもなく象徴的とでもいうべき独りよがりな表現。絵も効果的だが、それが効果的であるためには文字の助けが必要である。それはわかっている。

わかっているのだが、まだ旅での出来事やその後のことなどをきちんと文字にまとめる気にはなれないでいる。タイミングを逃せばそのまま書かずじまいになってしまう恐れのあることもわかっている。わかっているのだが、依然として何かを「書きたい!」という衝動に今は駆られない。というのも、色々と細かい理由はあるのだが、やはり一番大きい理由は何といっても、先日東京で受験した公立教員の一次試験に無事合格したことで(ちなみに大阪はダメでした)今はその二次面接対策に追われているということだ。否、「追われている」という表現は正確ではないかもしれない。けっこう部屋でゴロンとして漫画を読んでいることもあれば、スイカをほおばりながらテレビを観ていることもある。そう考えれば、けっこうゆとりのある生活を送っているともいえそうだ。ただ、それでも確信犯的に予め自由時間を設定する気持ちにはなれないでいるのも事実。漫画やテレビは、性質としては(それがけっこう長い時間であっても)水泳でいう“息継ぎ”のようなものなので、苦しくなった挙句の反射的・偶発的な(試験のためにならないことという意味での)“怠惰”に他ならず、けっして計画的なものではないつもりだ。そういう意味でいま僕は「追われている」。ただ、この“怠惰”を計画することができないというのはなんとも自己嫌悪を招くもので、「勉強しなきゃいけないから」という理由で遊ぶ予定をキャンセルしたはいいものの、いざその時間に机へ向かってみれどもやる気が起こらず、つい椅子から転げ落ちてじゅうたんに背中をあずけて“息継ぎ”してしまうことも度々。「なにしてるんだろう」と虚無的に自らを振り返ってみれど、そうしている間に背中はどんどんじゅうたんと一体化しはじめ、とうとう起き上がれないほどにまでくっついてしまう。そうして夜、いよいよ布団を敷く時になってふと一日分の足跡を振り返り、その数の乏しさに心底がっくりしたりする。

それで何がいいたいのかというと、けっきょく何もこれといっていいたいことなどないのだ。くりかえすが、何かを「書きたい!」という衝動に駆られているわけではない。だからメッセージなんてのもなくて、今もただ“息継ぎ”しているのに近い。ただ、そういう中途半端な気持ちを書き留めておくことも今しかできないことだろうと思い、こうしてキーボードの上、何本かの指を急ぎ足で滑らせてみた次第です。

 



2003年8月9日(土) 「出会い系サイトへ」

驚いたことに、僕の好きな「藤原基央」(“BUMP OF CHIKEN”のボーカル)が最近iモードのチャットにはまっているらしい。しかも、いわゆる“エロチャット”だそうだ。バンプのオフィシャルホームページに掲載されてある日記に、その事実が彼自身の手で公言(?)されていたのだ。ただ、最初こそ「なんだ?」と思ったが、その日記を読み進めていくとまたこれが面白くて、彼はその中で「ただただふつうに話してくれる人」を探していたそうだ。ならばもっと普通っぽいサイトに行けよと思わず忠告したくもなるのだが、しかし、そこが彼の敏感な神経のなせる業なのだろう。淫らな言葉や見え透いた欲望が飛び交う中で「ただただふつうに話してくれる人を探」す。そんな中だからこそ、もし見つかったらその相手の人もきっとこの俗社会にたいして敏感に神経を尖らせて生きている人にちがいない。だから、「ふつうに」どころか、そこではお互いにとって刺激的な会話を交わすことができるにちがいない。そして、実際藤原はそこでひとりの風俗嬢と出会い、「現実世界では得られない言葉」を交わしているという(詳しくは彼らのページを参照して頂けたらと思う)。

僕は、この「現実世界では得られない言葉」というものに大いに興味を抱いた。藤原がこのフレーズをどういう意図で以って用いたのかは判断しかねるが、僕はこの「現実世界」という単語の対義語を「サイバースペース」と解釈している。ネットの世界の大きな特徴は、なんといってもその匿名性だろう。つまり、現実生活を営んでいる自分自身は、拒否したければ、自分の発言に対して一切の責任を負うことを拒否することができるのである。このおかげで違法サイトの運営や掲示板あらしといったことも可能になるわけだが、しかし、物事には必ず表があれば裏があるように、裏があれば表だってある。つまり、この匿名性こそが「現実世界では得られない言葉」を紡ぎだすことを現実に許してくれているのである。ごくごく率直に言ってしまえば、誰かに面と向かってはいえないことも、どこの誰だかわからない相手になら告白することができる、というやつだ。もちろん、こういう態度を「コミュニケーション能力の発達に有害である」と斥けるのは簡単だ。しかし、発話という行為の本質みたいなのを考慮に入れつつ少し考えてみれば、こうやって匿名性に身を隠すという態度もあながち完全に有害というわけではないということが見えてくる。

僕たちは何気なく言葉を発する。青い空を見上げて「キレイやな〜」と言い、友達と不意に出くわして「おぉ、元気か?」と言う。ただ、ここで注目すべきは、実に当たり前のことなのだが、青い空を見上げる前には「キレイやな〜」なんて言葉は頭の中になかったはずだし、また同様に偶然友人と出くわす以前に「おぉ、元気か?」なんて言葉は脳裏に存在すらしていなかった、という点だ。つまり、僕たちは常日頃、かねてから頭の中に準備していた言葉を発しているというよりは、どうやら偶発的に言葉を発しているということのほうが多いらしいのだ。もっと厳密にいえば、次の瞬間自分がなにを話しているか(話そうとしているか)ということについて、今現在の僕は全く知らないのである。言葉を発して、その後で、自分の抱いている気持ちというものに気づいている。少し哲学じみた話になったが、そういうわけで、このサイバースペースにおける匿名性も僕には全否定はできなくなるのである。そこでは「現実世界では得られない言葉」が紡がれる。つまり匿名性を孕むサイバースペースは、それゆえこの現実世界では気づき(気づかされ)にくい自分自身について、深い認識の眼差しを向けることのできる場にもなりうるのである。親や知人にいえないことをカウンセラーに相談することを是とするならば、出会い系サイバースペースに足を踏み入れることもまた全否定はできないというのは暴論だろうか。

そういうわけで、僕も実際にサイトを訪れてみた。とはいえ、俗な僕はやはり藤原のようにはいかず、Hなサイトではなく普通っぽい出会い系サイトを訪ねた。思えば大学に入りたての頃、友達と一緒にふざけながら(それでいて少し熱くなりながら)学校のパソコンからこうした出会い系サイトにアクセスしては“ハンティング”を試みたことがあったが、出会い系サイトはそれ以来なのでついつい懐かしさを覚えてしまう。あの頃はまだまだ世間知らずで、今では明らかに業者か何かの書き込みだと判別できるような甘い書き込みにも、みんなでワイワイさわいでいたものだ。今日僕の訪ねたサイトもあの頃と形式としてはたぶん同じようなもので、まず部門が女性の部門と男性の部門に分かれていて、その各部門において、さらに投稿者の年齢だの住んでいる地域だのでメッセージが区分されている。女性のメッセージを集めた掲示板を覗くと返信件数が表示されていて、「この人には20件返信されました」の人と「この人には5件返信されました」の違いを一人で考えたりしているとなかなか面白かったりする。さらにもっと面白かったのは、男性の部門に足を伸ばして立ち寄ってみると、そこの投稿はことごとく「この人には0件返信されました」なのである。それはもう悲惨なくらい。しかも、投稿された文面を拝読する限り、たいてい男性の投稿内容のほうが女性のそれよりも熱がこもっている。ワナもない。きっと、こもりすぎて暑苦しいから避けられるのだろう。書いてる本人がそれに気づいていないからまた悲惨だ。「僕は寂しいです」「見た目は特に悪くはないと思います」「とにかくスポーツ好き」などなど、切実そのもの。僕個人的な考えでは、不特定多数の人間に現実の出会いを求めて(しかも無料で)自分を売り込むようにアピールするなんてことは恥知らず以外の何者でもないのだが、それゆえに彼らの言葉が(むろん彼ら自身が恥をしのんでいるかどうかは不明だが、さしあたり僕には)切実に感じられるのだ。彼らにとって、この匿名性は明らかに毒になっている。現実生活におけるコミュニケーション能力の発達に害を及ぼしている。

出会いを求めちゃいけない。つまり、最初から現実に会うことを希望してはならない。最終的な現実の伴侶を探したければ、たとえそれがイバラの道であっても、現実の街へ出かけるべきだろう。今日の僕の目的は現実の伴侶探しではない。サイバースペース上の話し相手探しだ(ここで僕は「現実」に対しては「サイバースペース」という言葉を使い、「バーチャル(仮想)」という言葉を禁欲している。つまり、サイバースペース上の会話であっても、そのスペースに参加しているのは仮想ではなくまさに現実の人間なのであり、その事実こそが僕にとって大きな意味を持っているからだ)。だから、文面を一読してかわいらしい印象を持つものはダメだ。自分をかわいらしく見せようとしているということは、やはり現実の伴侶を要求している可能性が高い。かといって、自分流のマニアックすぎる雰囲気を醸しだしているものも避けよう。頭では非常に興味があるけれど、やはり心情的に常識程度の最低限のルールは共有して話をしたい。一番いいのは男性なのだが、なにぶん男性からの返事を待っているような男性の投稿はまず見つからない。なれば女性ということになるのだが、まず探したのは「私には恋人がいますので割り切ってお話ができる人」といった内容の投稿。あと「気難しいといわれたりします」などと、メタ・メッセージを読み取った上での最終的な投稿内容として自分を肯定していない人。まぁ色々と条件を挙げたところでそれらはみな自分の直観の後に影のように文字化されたものばかりであるから、ここでそれについてこれ以上記すのはよそう。

なんにしても、そうやってぼんやりサイトを徘徊していると少し面白そうな人が1,2人いたので、興味本位で(それでいて少し熱くなりながら)メールを執筆した。やはり送る以上は相手にその返事を書かせる気を起こさせるような文章を目指さなければならないから難しい。相手がどんな人間かということが全くわからないからだ。そういえばこのサイトを訪れる際、「goo」に「出会い系メールの書き方」みたいなサイトもピックアップされていたのを思い出して一瞬そのことが頭をよぎったが、しかしそこまでサイバースペースの世界に自分を合わせるのも自分らしくないと思い、やめた。メールには簡単な自己紹介とメール交換を希望する目的について、事務的にはならない程度の語調で記しておいた。もちろん、返事のくる確証もなければ、自信もない。

思えばこのホームページも、もともとは読んでくれた人との意見交換みたいなのを夢見て創めたのだった。4/13付けの日記には「いろいろな場所で同じ今を生きている仲間同士、お互いの経験を過去形ではなく現在進行形で分かち合える場としてこのページが少しでも機能することがあれば、それに勝る喜びはないだろう。当ページの開設には、そんな願いもほのかに込めている」と記した。しかし、残念ながら今のところ実感としてその理想は理想のままである。掲示板は閑散としていて、キリ番リストも一向にガラガラで埋まらない有様だ。何もこのHPを訪れてくれている友人を責めようというのでは決してない。決して。むしろ問題の本質は、当ページを見てくれている人が「友人」であるという点、つまり匿名性を帯びていないという点にあるのだろう。僕個人だけにならともかく、僕以外の人たち(友人か、或いは僕にとっては友人だが発言する人にとったら時として“友人の友人”)に対してまで、匿名性を脱ぎ捨てた上で個人としての責めを追った発言はし難いというのが現実なのかもしれない。なればこそ、僕はサイバースペースに知的(?)刺激を求める。もしかしたら、ここの掲示板にもそのうちふとサイバースペースの住人が顔を出してくれる日が来るかもしれない。それならそれで、理想からは少しずれるけれど、すごく楽しみ。

 



2003年8月6日(水) 「子ども的生活態度を振り返る」

今週末に台風がやってきて雨を降らすということで、楽しみにしていた和歌山への温泉ツーリングは中止することにした。率直に、残念。残念なのだが、転んでもタダでは起き上がりたくない、否、正確には「起き上がるべきじゃない」と思ったので、その後に計画していた一泊二日・石川県への一人旅を、当初の予定の一日前に出発する二泊三日に変更した。和歌山行きが止になったからこそ、能登半島を巡る機会に恵まれたのだ。前向きに行こう。

それで、今日はその下見というわけでもないのだが、当日に慌てないためにも高速道路を走っておこうと考えついた。地図では何度も経路を確認したが、百聞は一見にしかずだ。もちろん今日ふらっと石川まで行けるわけはないので、地元の福島JCから名神高速の吹田JCまでを今日は走った。真夏の気温とエンジンの熱で、とにかく暑い。暑いのだが、高速は風で体温が奪われるので薄着はできない。結局今日1,2時間ほど高速と市街を走ってわかったのは、当日の数時間に及ぶ予想以上の我慢の必要性と、あとは一瞬の油断でいつでも死ねるということだ。

家に帰る。汗だくの僕はすぐに自分の部屋のクーラーをつけ、そのまま風呂場へ直行してシャワーを浴びる。そして、風呂から上がると冷蔵庫からわらび餅をひっぱり出して、冷蔵庫のような自分の部屋にこもる。先日日記にも記した、『わたしの出会った子どもたち』『隔離―故郷を追われたハンセン病者たち』という二冊の本に読み耽るためだ。この二冊の本が僕にとって興味深いのは、僕などにはボンヤリ想像するのが精一杯というほどの視点から人間の生き様がともにありありとノンフィクションに記されている点である。究極的な貧困のなか兄を自殺という形で喪ったことへの自責に念に駆られる灰谷健次郎と、そんな彼と出会った明るく生きる子供たち。ハンセン病という病気のために国家によっていわば合法的に家族や故郷から隔離された患者たち。だからこそ、読みたいと思うし、読まなければとも思う。

二冊を代表して、ここでは『わたしの出会った子どもたち』について少し語ろう。否、ほんの少ししか語れないといったほうが正確だろう。文中に次のような記述がある。

―肝苦(ちむぐる)しさ
古くからの沖縄の言葉には、“かわいそう”といった同情的な表現はない。沖縄では他人の苦しみにたいして、それを分かち合うニュアンスを持つ「肝苦しさ」(胸がいたい)という表現をつかう。沖縄には「他人(ちゆ)に殺(くる)さってん寝んだりしが、他人殺ちえ寝んだらん」(他人にいためつけられても寝ることはできるが、他人を痛めつけては寝ることはできない)という言伝えがある。


ひとつの具体例として、沖縄の小さな町で痴呆症の老婆が街を徘徊した際に、80人もの町民が当たり前のように彼女を捜索するという現場に灰谷さん自身が遭遇したということが挙げられている。ここで重要なのは「当たり前のように」という点だ。彼らにとって他人の安否を気遣い街を挙げて捜索することは、言葉のオリジナルな意味におけるボランティアなのである。沖縄は、いうまでもなく太平洋戦争においてアメリカ軍によって深く傷つけられた島である。しかし、そうした悲しい戦争の傷跡を抱えているがゆえに、そこに住む人々は明るく、真に楽天的に生きることができるのだと灰谷さんはいう。そして、そのような沖縄の人たちの心は、彼がこれまで出会ってきた子どもたちにも通ずるところがあるのだと灰谷さんは示唆している。

沖縄のこころと子どものこころの相似性は、抱きしめる大地を持たない現代人が、祖国喪失と感情喪失の淵に沈んでいるとき、繁栄とか栄華とか無縁のところで、ひとを愛しつづけ、たたかいつづけてきた魂をいとしんできたという事実だ。彼らは決して加害者の立場に立ったことはなかった。

元小学校教師として彼自身その「加害者」としての自責の念に苛まれもしつつ、しかし灰谷さんは、現代の教育はやはり子どもを「圧殺」していると考えている。その具体的な事態はいくらでも考えつきそうであるが、別の箇所で灰谷さん自身「教師は、外から加えられる差別には敏感であるけれど、自らが日常の中でつくり出す差別にはまるで鈍感ですね」という言葉に深い共鳴を示している点を鑑みても、この「圧殺」とは単に学校という場所に限定して向けられた批判というよりは、本質的にはまさに人間が現代において社会化(教育)されていく(つまり「大人」になる)過程そのものへ向けられた嘆きと考えるべきなのかもしれない。「他人の排除を実践しつつ他人を排除してはいけないと主張する。そういう人間が次々と形成されくる。それが私の生きている現代の日常なのではないか」というのが、この「圧殺」という表現の指し示すところの、自責にも似た嘆きの核心なのではあるまいか。現代の競争社会に身を投げ入れるということは、「競争」という言葉が意味するように、たとえそれが無自覚的な「保身」のためであったとしても、あるいは単なる自立のためであっても、生活における数々の場面で(むろん法的な意味ではなく、精神的な意味において)「加害者の立場」に立たざるをえないということである。それゆえ、現代の喪った「沖縄」的生活態度、そして大人の喪った「子ども」的生活態度、つまり「肝苦しさ」を感受しうる楽天的な人間の生き様というものに、私たち現代人の大人は今一度自らを照らして見なければならない。これが、僕が本書から読み取った、大きなメッセージのひとつである(むろんこの他にも色々と深く考えさせられる点はあったが、その含蓄の深さゆえ、ここでは措かざるをえない)。

それゆえ、実際に照らし合わせてみる。クーラーの効いた部屋で横になりながらこの本を読んでいるこのリラックスしきった自分自身の姿を、傷を抱えて生きる沖縄の人たちや、無垢で楽天的な子どもたちの生き様に照らしてみる。そして、言葉に詰まる。「恥ずかしい」というのは簡単だ。しかし、本当に心の底から「恥ずかしい」と思っているのかと自問してみると、ここで簡単に「恥ずかしい」といってしまうことこそ恥ずかしく感じられてしまい、言葉に詰まる。なにかきまりの悪さみたいなものは感じている。それは胸を張って語ることのできる事実である。しかし、それが自らの実践を変革してしまうほどのインパクトを持つほどに強い羞恥心を孕んでいるかと問われれば、やはり残念ながら否と答えざるを得ない(ゆえに、ここで「残念ながら」と書いたのも、あくまで論理的な判断に大きく依拠した結果であるといわざるをえまいということも付記しておく)。

たとえば、風邪を引いたことのない人間に風邪で苦しんでいる人間の痛みは、どれだけの医学書を読破したとしてもきっとわからない。だからそれと同様に、貧しさや惨劇に苛まれたことのない僕には、どこまでいっても貧しさや惨劇に苛まれている人の痛みなどわからない。このように言うのは簡単だ。そして、もしかしたらこれは真実なのかもしれない。しかし、仮に真実だとしても、いや真実であるのなら真実であるがゆえに、「だからどうすべきか」ということが問われなければならないように思う。僕は沖縄の歴史を経験していない。だから沖縄の人たちのようには生きられない。なるほど、そうかもしれない。なれば、だからどうするか。わからないから、眼を背けてしまうのか。しかし、そうすることは少なくとも僕にとって、ひとつの自己欺瞞しか意味しないだろう。なぜなら、先にも触れたとおり、本書に触れて僕はなにかきまりの悪さみたいなものはすでに感じてしまっているからだ。たしかに依然として今もクーラーの効いた自分の部屋に寝っ転がっている。しかし、そうしながらも微細ながらそういう自分に違和感を感じてもいる。そう、ほんの少しながら「肝苦しさ」を感じているのである。なぜか。それはいくら自問してもわからないのだが、灰谷さん的見解をするならば、それは自分自身がかつて子どもであった(つまり子どもの世界を経験した)からであり、そして今もまだどこか「子ども」的だからなのかもしれない。なれば、子どもたちと触れ合うということは、灰谷さんの指摘しているように、たしかに大人にしてみればほぼ必然的に子どもを「圧殺」する、すなわち知らず知らず傷つけてしまう事態を招くだろう。しかし、それは同時に一方では、そうしたなかでの共感的態度を通じていつしか忘れてしまっていた「子ども」的生活態度、すなわち「肝苦しさ」に満ちた楽天的な生活態度をもう一度克明に思い出せる契機になるとも考えられやしまいか。横柄ながら、教師という職業にまたひとつ魅力を見つけることができたような気がする。

そういえば、この本を僕に薦めてくれた友人は「この『わたしの出会った子どもたち』はおれのバイブルやで」と笑いながらいっていた。バイブル(聖書)か。そういえばキリスト教徒は聖書を肌身離さず持っているようなイメージがあるが、あれは信仰の証としてただお守りのように本を抱きしめているのではなく、きっと聖書に書かれた内容と自分自身の現在を絶えず照らし合わせるためなのだろう。一度読んで、頭で理解して悟りが開かれるのではなく、読み続けて、何度も自問自答するなかで悟りへの道も開かれるのだろう。いつだったか、この日記で「灰谷文学に真正面から定期的に触れる」ということを自分に約束した。今や、その約束はさらに固いものとなった。せめて、この寝っ転がった体勢から、自発的に、当たり前のように、まっすぐ起き上がれるくらいになるまでは。

 



2003年8月3日(日) 「退屈の構造」

朝起きる。うとうとしながらも数十分ほどフトンのなかでもぞもぞして、観念したかのように起き上がって顔を洗い朝食を取る。新聞に目を通し昨日の出来事と今日のテレビ番組を確認して部屋に戻る。さて、これでもう今日一日することがなくなってしまった。このところ、実感としてはこのような夏休みを過ごしている。「これじゃあダメだ」と頭でわかっていても、心に嘘はつけない。

否。もっと正確にいえば、なくなってしまうのは「すること」ではなく「すべきこと」といったほうが良いだろう。「すること」(あるいは「したいこと」)ならごまんとある。散歩もそう。遠出もそう。地元の友達と飲みに行ってもいいし、ふらっと東京あたりに遊びに行くのもいいだろう。作曲だってしたければ、勉強だってしたい。「したいこと」は溢れるくらいにあるし、実際に一学期のあいだずっと焦がれていたことでもある。しかし、いざこうやってずらっと目の前に並べられてしまうと、どうもこれらはみな今僕の「すべきこと」じゃあないような気がしてくるのだ。つまり、これらの選択肢は皆もちろん何らかの義務を伴うものではないのだが、それだけでなく、「今この瞬間、他の何よりも優先して僕はこれをすべきなんだ」と確信を持って胸をはれるものがどうしても見つからない。部活動を引退して成績が下がってしまう受験生の心情と言われればそれまでだが、それゆえ日課のジョギングを除けば、何をすべきかを考えているうちに気分転換がてらそのまま布団にゴロンとなってしまったり、上手くいっても梅田まで買う当てのない買い物に繰り出すくらいだ。

そう、要するに退屈なのだ。退屈なのだが、嘆いているだけではさらに退屈になってしまうので、ボンヤリその退屈の理由を考えてみた。実をいうと、とはいえ最近は少し読書にはまっている。今「読書にはまっている」といったが、つまり読書という行為を少なからず「すべきこと」と自覚して生きているということだ。じゃあ、なぜ僕は最近になってようやく読書を「すべきこと」として生きていられているのか自問自答してみよう。ここらへんに「すること」と「すべきこと」の違い、すなわち「退屈」と「充実」の違いを明らかにする鍵があるんじゃないだろうか。

数日前、ある友人と飲んだ。「ある友人」というのは、大学の学部生時代に僕と同じ研究室で勉強し、今はこちらの大学の大学院でさらに勉強を続けている友人だ。当然、話題はおのずとお互いの近況から大学時代の思い出へと広がっていくわけでが、それゆえ僕自身が大学時代に耽っていた読書という営みもまたフラッシュバックしてくることになる。この四月から僕は社会人もどきになり、読書以外のことを求められるそれなりに忙しい環境の中で、いつしか思索に耽るということをなおざりにしていた。否、もっと正確にいえば、思索に耽るという行為よりも別の行為、たとえばテストを作成したり成績をつけたりといった事務的・実践的ともいえる行為にこそ高い価値を認められ続けていたがゆえに、自ずとそのような価値観が正しいんだという心構えをとってしまっていたのだろう。しかし、目の前にいる友人は今もなお文献に当たり、何を勉強し、それをどう解釈すべきかということについて、自分の人生をかけて必死に悩んでいる。そう、本に触れ思索に耽るという行為は、決して意味のない行為などではないのだ。こんなわかりきったこと、わかりきっていたことを、恥ずかしながら僕はついつい忘れてしまっていた。読書への意欲は自ずと高まる。そういえば、休みに入った途端に僕は京都へと出かけた。もちろん休みにしかできないことと思ったからだ。しかし、よくよく考えればじっくり本を読むことだって、休みにしかできないという意味では旅行に出かけるのと同じくらい貴重な行為ではないか。

そして、『わたしの出会った子どもたち』(灰谷健次郎著、新潮文庫)、『隔離―故郷を追われたハンセン病者たち』(徳永進著、岩波現代文庫)という二冊の本を、僕は今「すべきこと」として読んでいる。いずれもこの友人に薦められたものだ。二冊とも従来から僕が関心を持っていたテーマを扱った本なのであるが、やはり読むという決断の最後の一押しが友人の推薦だったということは否めない。こう考えると、他人に感化されることは、ある意味では決してネガティブなことではないんじゃないだろうか。むしろ、あらゆる行為において、他人に感化されることなしには自分のモチベーションそのものが発生し難いように思われる。薦められた本を読むのそうだが、たとえば流行のファッションに身を包もうとすることや、あるいは旅のガイドブックを眺めつつリアルに旅行の計画を立てたくなるということだって、構図としては似通ったものだろう。自分の外側からの刺激に感化されることで、自分の行為に「それは無駄なんかじゃない」という意味が与えられる。もちろん外側からの刺激だったら何でもいいというわけではなく、ボンヤリでも、せめて「すること」(あるいは「したいこと」)程度のモチベーション的な【火種】は必要である。しかし、その【火種】がボワっと燃え上がり、どんな北風にも屈しないほどにまで堂々と強く燃え盛るには、やはり最後の一押しのところで自分以外の誰か、自分にとって大きな意味を持つ誰かの存在が不可欠になるんじゃなかろうか。さらに付け加えれば、それでも「ボワっと燃え上がる【火種】」が一つに限られず、時として複数同時に存在してしまう場合がある。しかし、今この瞬間に存在している自分は一人しかいないので、選択できるのはもしろん一つ。そこに悩みが生まれる。なればこそ、おそらくどちらを選ぼうとも、どこまでいっても当分の間は【やせ我慢】を強いられることになるのだろうが、しかし、今ここで考えてみたようなことに照らし合わせてみればひとつの指針を得られはしまいか。いうまでもなく、その各々の【火種】を着火しうる誰かさんとコミュニケーションを重ねることで、燃え盛る二つの炎の勢いを競わせるということである。競わせていることなんて忘れてしまうくらいにまで、競わせることである。

そういえば、今日淀川で花火があった。窓の外で騒がしくどんどん鳴っているので気がついた。マンションの廊下に出てカラフルに照らされた夜空を眺めた。きれいだった。きれいだったが、河原まで行こうとは思わなかった。河原まで行くことは、僕にとって「すべきこと」じゃあなかった。そう考えると、夜空にこだまする陽気な重点音が少し寂しかったりもした。

 



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