2003年4月27日(日) 「ふらり神戸」

休日なのに、珍しく早く(といっても九時ごろだが)起きた。どうやら体も学生時代からの時差ボケを克服して、 この新しい生活に馴染んできたのだろう。カーテンを開けると陽射しがまぶしい。外を見渡せばまさに雲ひとつない快晴の天気。 道路を走る車のフロントガラスがちかちか光って流れている。 だが、早起きしたはいいものの、パソコンをいじったりしてウダウダしつつ、さらには朝食をとりながら見ていた サンデープロジェクトに引きづられて、けっきょく正午まではこれといったことは何もできなかった。「これはいかん」 と思い、昼食後すぐに着替えて駐車場へ。バイクに乗って、いざ神戸へ。

本当に久しぶりのバイク。やはりスタンドを払うだけで重く感じる。エンジンのかかりも悪い。セルを回し続けてどうにか 出発すると、あたりまえの加速にややたじろぐ。この3週間、ずっと歩きっぱなしの生活だったから無理もないか。経路は地図で 確認済み。福島区役所の前をずっとまっすぐに行き、梅香の交差点を右折して伝法大橋を越えて、あとはひたすら直進。 地図上では一般道としかわからなかったが、いざ走ってみるとバイパスみたいな高速っぽい道が少し続いており、下は下でさほど 混雑もしていなかったので、走行はすこぶる快適だった。途中、あまりにうっとりしすぎて信号が変わるのをぼんやり眺めていた だけという危ういシーンもあった。急ブレーキで止まった場所は、横断歩道の向こう約3メートル。歩行者の目を気にしつつ 恥ずかしげに車体を後ろへズルズル戻すと、横断歩道の白に黒いタイヤの筋がこびりついていた。

さて、それでも一時間弱で三宮に到着。もともと目的といえばバイクのバッテリーを充填するという程度の今回の遠出であったが、 東京で友人が勤めているアパレルショップの神戸店がここ三宮にあるということで、まずはそこを探すことにした。地図を片手に 駅前まで出て初めて気づいたのだが、三宮には以前、小学校のときに冬の耐寒遠足で来たことがあった。雪道の登山で足を滑らせ て、後ろにいたでっかい友達に助けてもらったことを思い出す。あのときはもちろん震災前。あの当時に比べると、駅前はやはり どこか閑散とした雰囲気であったが、でも逆に今ではそれがさっぱりとした清潔感を醸しだしているようにも思われた。どこか横浜 と重なるところがある。同じ港町ということもあるのだろうか。

例のショップはさほど大きくなかったが、難なく見つかった。店内に入ると東京の店にはない商品もけっこうあり魅力的であったが、 東京でいつも友人の特典(社員割引き)を使って三割引きで購入していたセコい僕にはやはり定価で買うのはためらわれ、結局なにも買わずわずか数分で店を後にした。 そして、海が見たいと思い、バイクを南へ走らせる。ハーバーランドへ行くと、海辺にコムサなどの洒落たショップが並んでいる。 かと思いきや、バイクを道なりに走らせているといつしか倉庫が立ち並ぶ殺風景。挙句の果てにプチ迷子になってしまった。どうにか 国道を見つけてアオカン(青い看板)を目印に進むと、今度はメリケンパークの文字が見えた。ハンドルを右に切り、ポートタワー を目指す。

休日ということもあり、海辺は家族やカップルでにぎわっていた。バイクを止めタワーを見上げると、タワーの赤と透き通る空の青との コントラストに、少し立ちくらみを感じるほどの迫力を感じた。ギラギラ光る波の上を遊覧船 が往来し、跳ね返った日光が乗客の笑顔 を活き活きと照らす。辺りではフリーマーケットも開催されていて、売り物の配置を相談しながら母親と一緒に座っている子供たちの 姿が目立った。海洋博物館のほうに足を運ぶと、前の広場で大勢の子供たちがサンバを踊っていた。楽しそう。もちろん革ジャン革パンの 23歳が混ざるわけにもいかなかったが。

帰り道、思い出したように三宮に立ち寄り明石焼きを食べる。600円という値段のわりには高級感もあり、おいしい。 そうして、帰路。道はやはり空いていて走行も快調。道中、信号待ちのときに両脇をハーレーに挟まれた。CB400の僕は つい意地を張ってしまい、信号が青に変わると同時に猛ダッシュ。悪い癖。でも、どれだけ飛ばしても、車間を縫って引き離しても、 だいたい次の信号待ちまでには追いつかれるのがオチ。そして、例の長いバイパスを通るあたりで勝負(?)は着いた。もちろん僕の負け。 アクセル全開で100km/hをひねり出す僕の横を何食わぬ顔で過ぎていかれた後は、もう二度とあのハーレー達に追いつくことはなかった。 ちなみに、バイパスの制限速度は40キロ。大阪のドライバーは運転が荒い。交通の流れに乗ると、基本的にスピード違反を犯している。

五時過ぎに帰宅。振り返ればわずか四時間程度の外出。でも、なかなか印象的だった半面、いささか疲れも覚えた。 そのままソファーで寝てしまう。起きて、夕食をとり、巨人―横浜戦を見る。いつもの夕べ。明日から、また学校。うん、いい休日だった。

 



2003年4月26日(土) 「敵とみなしちゃいかん」

このところ風邪気味で体が重い。それでも社会は労働を強いるので、滑り込むように今日、土曜日を迎えた。あと三コマで今週も終わり なのだが、うち二コマが例の三年生。そのうちの一クラスで怒鳴ってしまったことは前に書いたが、その後はやや私語もおさまりつつも、 やはり静かとはいい難い。ただ、このままウジウジ文句を重ねても事態は解決には向かわないと思い、昨日はぐっすり眠った。策を弄する よりも、いい気分で彼らと接するほうが良い突破口が見つかる気がしたからだ。否。正確には、そう祈った。

そして今日。一クラス目の最初は漢字テスト。試験中、生徒はカンニングもおしゃべりをすることもなく、みなウンウンと頭をうならせている。 「やっぱ高校生なんやな」と、当たり前のことだが試験中机の間を歩きながら、率直にそんなことを思った。試験が終わり、雑談交じりに生徒が漢字の質問してくる。 丁寧に答えてやる。コミュニケーションが生まれる。そういえば自分の学生時代を思い出しても、一度くらい怒鳴られた 程度では明日には忘れているのが常だった。ほんのわずかであっても、わだかまりを持ち越して授業に臨んでいた自分が少し照れくさかった。 授業も、努めてコミュニケーションを取るべく、わかりきった簡単なことでも、次々に質問した。すると、やはり生徒同士の雑談の なかから「今日は質問多いから寝られへんわ」という声が漏れてきた。ただ、そう嘆く生徒の目は、いつもより授業に参加しているよう だった。何か、暗闇を抜け出す糸口のようなものに触れたような気がした。どうやら、知らず知らず、僕は板書ばかりの悪しき自己満足な 授業を展開していたようである。

気持ちが弱くなったときほど、悩みの種とは関わりあいたくなくなるもの。シカトして、心を閉ざしてしまうほど楽なことはない。 「わからないやつはついてこなくていい」と言ってしまうのは簡単である。 ただ、一年間生徒と向かい合わねばならない教師は、そのような態度は断じて慎むべきであると、僕は理屈で感情に言い聞かせる。 もちろん、媚びてもダメ。媚びることこそ、放任という形で心を閉ざすことのような気がする。だから、今後はもう少し厳しいルールを設けようかとも考えている。縛りつけるのではなく、あくまで関わり合い の一環として。休み時間、そのクラスの生徒と階段ですれ違った。「先生、うちのクラスうるさいやろ。でも先生の授業はまだ全然ましなほうやで。」 「もっとちゃんと話きけよ。」文字にすればたわいのない会話だが、僕にはなぜかそこに、これまではなかった艶のある響きが感じられた。 昨日よく寝たのはどうやら正解だったようだ。

それにしても、新生活はまさに一喜一憂の連続。些細なことで未来の先まで希望に満たされたり、はたまた一寸先が闇になったり。 きっと、次の日記ではまた、とことんまで打ちのめされた僕が描かれるのだろう。この一月分をざっと読み返してみても、 その日その日によって全く異なるテンション起伏が実におかしい。 気がつくと、勤め始めてからはや一月が経とうとしている。昨日、郵便局に初任給が振り込まれた。 そこで、実家に何か贈ろうかと思って帰りにデパートを覗いたんだけれども、 めぼしい物が見つからなかったので見送った。帰宅後、「テレビ買おうか?」と親に尋ねたら真顔で「買うな」といわれた。 そして今、机の上には東京の友達から取り寄せた教員採用試験の願書。 あと二月。100倍超。壁は高いが、あがけるときにあがけるだけ、あがいてみよう。でも今日は眠い。さて、どうしよ?

 



2003年4月23日(水) 「ちっちゃい」

今日の授業は昼からだったが、生活のリズムを崩したくないので早め(といっても昼前だが)に学校に行った。今日は悩みの種の三年生 のクラスでの授業が二コマ。なんとか気持ちを奮い立たせつつ職員室に入るのだが、実は授業とは別に悩みの種がもうひとつ。それは、 隣の席のベテラン先生とあまり会話がないということ。嫌いというわけではまったくないのだが、いかんせん教科も世代も異なるがゆえに、 話題がない。その先生はだいたい向かいの席のベテラン先生と雑談をしているのだが、その人が授業中などで二人きりになると 何ともいえずぎこちない空気に包まれる。今日も僕が着いたときはまさにそんな風で、いたたまれなかったのか、隣の先生はしばらくすると 職員室を出ていかれた。申し訳ないと思いつつも少しホッとして、軽く授業の準備などをしていると小腹が減り、時間もあるので学食へ。 中等部がちょうど昼休みということで、食堂は学生でいっぱい。親子丼を注文し、学生の合間を縫って席に着くと、あろうことが、例の 隣の席の先生が、一人で定職を食べていらっしゃった。目があって、軽く会釈をしたはいいものの、離れて座るのも悪い気がして、 でも向かいに座れるほどの仲でもなく、向かいの二つ隣という実に微妙な席に腰を下ろした。そして、やはり気まずい沈黙。何か喋らねば と思うのだが、だめだ。やがて例の先生は席を立ち、出て行くのかと思いきや、湯飲みにお茶を汲んで戻ってきた。そして、次の瞬間。 「どうぞ。」ふと顔を上げると、先生は僕の分のお茶も汲んでくださっていた。たまらず、僕は笑みをこぼした。同時に、己れの小ささを恥じた。

午後になり、一コマ目の授業は無難に終えた。そして、次の一時間が空きだったので、同じ国語科で三年生の僕と同じ単元を担当していらっしゃる ベテラン先生の授業を見学させていただくことにした。授業についての本も何冊かは買ったりしているのだが、やはりこの目で見るのが一番であると 思うし、それに何より、この学校で展開されている授業というものを僕はまだ一度も見たことがなかったからだ。起立・礼から授業が始まる。すると、 教室の空気は実に緩やかであり、それでいて静かだった。喩えるなら、春の海。自らの、真冬の日本海絶壁の荒波のような教室の雰囲気を振り返ると、 ものの開始数秒でその格の違いというか、経験の違いを痛感せずにはいられなかった。そのベテラン先生は、平気で生徒を「ヘタ野球部」、 「くいだおれ」などと毒の効いたあだ名で呼ぶ。しかし、そう呼ばれた生徒はどこか嬉しそうですらあり、その先生の口調にもトゲは まったくない。発問の仕方や板書の内容など、授業内容の展開も実にスムーズ。教材を深く研究していらっしゃることは明らかだった。 正直、脱帽。これから登る山は、やはり高い。

そうして、その感銘を胸に三年生ふたつ目の授業へ。やはり、騒々しい。先にあの授業を目の当たりにしているだけに、 いっそう雑音が大きく聞こえる。立ち歩く姿こそなかったが、私語が激しく、板書を写すとき でさえ、話は止まない。教室中がそのような雰囲気になったとき一番ツライのは、自分の声を受け止めてもらっているという実感が ないということである。あたかもマネキンたちに話しかけているような錯覚に襲われるといっても過言ではない。それでも、真面目に授業を聞こうとしている 生徒のためにも、というよりれっきとした義務として、教師は語り続けねばならない。だが、あまりの騒がしさにとうとう堪忍袋の緒が切れて、 「いいかげんにせぇよっ!」叫んだ。教壇に立って以来、初めて怒鳴った。しんと静まる教室。平静を装い、諭すような口調で「真剣に授業聞きたがっている子もおるんや」 といった。もしかしたらもっと響く教説があったかもしれない。でも、その瞬間の僕にはそういうことが精一杯だった。それゆえ、 授業が終わった途端に激しい自己嫌悪に陥った。あの平静を失った「いいかげんにせぇよっ!」は、はたして指導と呼べるものだったのだろうか。 「教師は叱らなければならないが、怒ってはならない」と教育実習のときに教官から教わったが、僕は明らかに怒っていた気がする。 生徒の騒々しさに対して、でも、それはもしかしたら己れの未熟さに対してだったのかもしれない。そう考えると、今日の怒鳴り声は、 いわばただの「八つ当たり」だったとさえ思えてくる。話を聞いてもらえない歯がゆさからか、真面目な生徒の期待に応えられない痛みからか。 自分に非を認めず、生徒に責任を転嫁してしまったようで、ひどく心苦しい。 自らの責として非を認めるということは、本当に、本当に心を痛めることであるようだ。小ささが、痛い。

夜。気分転換に野球を見たら、九回・三点差でマウンドに上がった我らが巨人・河原が、なんと五点とられてノックアウト。 なのに、ベンチで半泣きの河原に、反感どころか、逆に共感じみたもの覚えたのは気のせいだろうか。気を取り直してやるしかない。

 



2003年4月22日(火) 「体をうごかそう」

火・木・土曜の朝は六時半に起きなければならないからツライ。いや、それ以外の曜日は幾分ゆっくり起きれるのでラッキーというべきか。 とにもかくにも、今日は寝不足。というのも、一年生のクラスで実施している漢字テストの採点が深夜にまで及んだからだ。

厳密にいえば、採点ではない。漢字テストもすでに各クラス数回を重ね、やはり高得点を維持する子、バラつきのある子、毎回あまり点の取れない子など、そろそろ リズムめいたものが生まれ始めてきている。それと平行して、クラスでの平均点が少しずつではあるが落ち始めている。そんなわけで、 どうにか生徒の気持ちを引き締めるような良い手段はないものかと考えて、昨夜思いついたのが「コメント記入」。それが寝不足の本当の原因。

作業はいたって簡単。返却する一枚一枚の答案に、ひと言ふた言コメント添えるというものである。ただ、そのたった二行の言葉を記すのに、 物理的にも精神的にも実に多大な時間を要した。手元には教務手帳に記した各生徒の点数の変遷と、あと第一回の授業で実施したアンケート。 たとえば、点数の変遷が8点−9点−9点となっている生徒が二人いても、片やアンケートに「国語が好き」と答え、片や「嫌い」と答え ていたりする。すると、いくら取っている得点が二人同じでも、投げかける言葉はやはりそれぞれ個別に考えてやらねば意味がない。 汗を流す努力という意味ではおそらく「嫌い」と答えた生徒のほうが大きいだろうし、逆に国語に関心を持っている子になら労をねぎらう よりもゲキを飛ばすほうが良いように思われたからだ。 そんなことをあれこれ考えながら、昨夜は120枚以上のアンケートと答案を一人でニヤニヤしながら戯れていた。 ある種の自己満足なのかもしれない。成果がどうでるかも、まったく見当がつかない。 ただ、結果がどうでようと、これが生徒にどういう影響を与えるのかという現実理解にだけは、今後目を凝らしていく所存。

そんなこんなで今日もいつものように学校での業務をどうにか無事に終えたのだが、しかし今日はいつもより少し早く家に帰った気がした。 否、実はいつもと同じくらいの帰宅時間だったのだが、天気が良かったせいか日の入りが遅く辺りがいつもよりまだ明るかったのだ。 天気予報で聞いたのだが、この頃は一日二分ずつ、日の入りが遅くなっているらしい。 そうして、たまらず河川敷までジョギングに飛び出した。やはり体を動かすのはいい。とらえどころのない漠然とした悩みや不安、それが 解消まではされなくても、少しだけその輪郭がはっきりするような実感がどこかある。悩みとの距離感がつかめるとでもいうべきか。 それにしても、やはり久しぶりの運動ということで、自宅を出て淀川の河川敷に着くころにはけっこう息が上がってしまっていた。 堤防に上がり、砂利道を数分走り、あとはゆっくり歩くことにした。

すると、空の色がパッと青からオレンジに変わっていくのがわかった。太陽が西に傾き、今日の最後に輝きを増す瞬間。 工場の灰色の壁、陸橋の水色、 雑草の緑、すべての景色がオレンジ色に染まっていくのを見て、実に庶民的ではあるが、蛍光灯のヒモを引いたとたんに白から暗いカキ色に 変わる自分の部屋を連想した。もちろん、蛍光灯に例えるには大きすぎる。河川敷の、地球(?)最大の蛍光灯。堤防の上を歩く ダボついたジャージの影が長く伸びて、数十メートル脇の車道にまで架かっている。なぜか、少し面白かった。 川べりに腰を下ろすと、風に揺れる草の音や、そこをブンブン飛んでいる名前も知らない虫がすべての感覚を浸す。 自然に触れてほっとするときほど、自分が人間である以前に生命であるということを実感することはない。やがて汗もひき、再びジョギング しながらいま来た道を引き返す。すると、向こうのほうからこちらへと、砂埃を巻き上げながらビッグスクーターが走ってきた。 嫌なのはすれ違ったあと。数十メートルにわたる砂埃のなかを、おかげで眉間にしわを寄せながら走る羽目になった。 ただ、同時に、今のライダーにはきっと長く伸びる影や名も知らない虫の声など見も聞きもできないだろうと、 少し得意な気分になったりもした。

でも、そういえばこのところバイクに乗っていない。バッテリーも少し心配。次の休みに神戸あたりにでも行こうか。海を見よう。夜景も見よう。

 



2003年4月20日(日) 「慣れ始めが肝心」

どうにか一週間が終わり、休日を迎えている。そろそろ学校の空気にも慣れ始め、さほど違和感なく校門をくぐることもできるように なったと思う。振り返ってみて、「まだ一週間か」というのが率直な実感で、色々な痛みと発見があった。

まず、この日記にも記したが、生徒に課した「漢字テスト」はどうにか順調に滑り出した。クラスの掃除当番の班ごとに順番で作っていこうと呼びかけて 最初の一回目に出てこなかったときはかなり不安で、正直「じゃあやめよう」とまで言いかけてしまうところだった。ただ、偶然にも 授業と生徒の証明写真撮影が重なり、授業を中断してホールまで生徒を引率したのだが、その際、生徒との雑談のなかで「あたしやったら 順番きたらちゃんとやるで」という声を聞き、おかげで「一部の人の抵抗にビビってやめるんじゃなく、やろうという生徒もいるのだから、やる方向 で働きかけてみよう」という気持ちを持つことができた。そして、実際にその出せなかった班の一人に話を聞いてみると、「女子がひとり だけだから、集まって話し合いづらい」ということだった。なるほどと思い、掃除の班ではなく、くじ引きを作って、国語の班というもの を新たに作ることにした。女子の人数に合わせクラスごとの班の数を調整して、最低二人以上は入るようにしたところ、けっこう楽しみな がら問題を作って持ってくるようになった(ように思う)。ちょっとした気遣いの大切さとその効果の大きさというものに少し触れたような気がした。

ただ、依然として悩みの種もある。三年生のクラスの騒々しさである。頭が痛いのは、単に騒がしいからではなく、勉強したいという 気持ちで授業に臨んでいる生徒も少なからずいるにも関わらず、数名のおしゃべりのために、たびたび教室の空気が緩んでしまうからである。 まだ緊張の面影の残る一年生のクラスとは対照的であるがゆえに、いっそう頭痛はつのる。ただ、単に「黙れ」といって突き放して しまうのもどうかと思いつつ、なんとか静かにさせる方法はないものかと思索に耽っていると、あるひとつのことに気がついた。 それは、上手くいかないことの責任はみな教師の方にあるという自覚の大切さだった。生徒のせいにしてしまうのは簡単である。 しかし、それでは今後とめどなく泥沼に陥っていくことは明らかであるだろう。

そうして振り返ってみれば、授業に慣れ始めてきたこともあり、このごろは授業の準備というものに以前ほど神経を尖らせていなかったのではないかという 反省に出会う。もちろん最低限の準備は常に怠ってこなかったつもりだが、しかし、細かい知識や授業展開のシュミレーションなど、省いても 授業の大きな流れに支障のないような準備には、日を重ねるごとにあまり時間を費やさなくなっていたように思う。根拠のない慢心である。 すると、授業をしていてつい一杯一杯になってしまうのも、単に騒々しいからというのではなく、そうした細かな準備不足にも原因はあるのでは ないかという気がしてきた。なにより気持ち。気持ちで背を向けてしまってはいかん。しっかりせねば。って、また自分で自分を鼓舞しているな…。

このところ、友人という友人に会っていない。まだ授業や勉強ことがいつも心の端っこに引っかかっていて、会おうと呼びかけることもない。それでも、この生活がさほど孤独感といった類の感情とは無縁なのは、家族のおかげであり、 また学校で顔を合わせる生徒たちのおかげでもあるのだろう。毎日たしかに疲れも感じるが、それはきまっていつも、学校を出て家に帰るまでの間 と、あとは家族が寝静まって一人明日の準備をするとき。「なにげない雑談」の尊さを、つくづく想う。余談ながら、 同期の同僚に先日「出身はどちら?」と聞かれた。どうやら僕の関西弁は東京での四年間を経たことで、どこかニセモノ臭いらしい。 自身としては完全に元に戻っているつもりだっただけに、そのギャップにややショックだった。ま、それも雑談。

 



2003年4月14日(月) 「甘くはないな」

今日は朝から晩までの四時間授業。今日で、一通り受け持つクラスすべてに顔を見せることになったのだが、やはり生徒も十人十色なら、クラスも十人十色。 同じ三年でも、今日いったクラスは先日行ったクラスよりもいっそう騒がしい。話している最中にも平気で授業に関係のない質問をしてきたり 後ろを向いてしゃべったり。もちろん、例によって先日のようにケジメを訴えてみたが、さほどメッセージが届いたようには思われない。 やはり、処方箋に関しては、美しく表現された金科玉条のようなものにすがるのではなく、地道に教室の中を泥臭く探り続けるしかなさそうだ。試練である。

授業中、他の先生の悪口も聞いた。「○○のやつ、完全に俺らのこと見下してる。先生はそんな授業やめてや」という按配に。もちろん、 見下すつもりなど毛頭ない。ただ、とめどなく私語を続ける子供たちを振り向かせるには、どのように語りかければよいのか。経験の 乏しさを憂う。その○○先生に、愚痴のことは伏せつつ、放課後そうした騒ぐ生徒への語りかけ方を尋ねてみると、「一年目から威厳を求めるのは無理だよ」 と、僕を励ますようにおっしゃられた。威厳。でも、それはけっして生徒を見下すことではないはずだ。(加えていえば、この○○先生は僕の目にはとても親切な 、単純にいい人である。)難しい。

別のクラスでは、今日提出予定だった漢字テストが出なかった。少しでも気楽に取り組んでもらおうという狙いから、問題を生徒たちが、班で作るよう指示していたのだが、 逆に共同作業というものが重荷になったのだろうか。アンケートには「まじめなテストのほうがいい」という声もある。教育実践に関する自らの決断の是非が、生徒の反応によって一つひとつ浮き彫りにされ、照らし出される。 重々承知していたつもりだが、やはり甘くはない。

そうして、いつか大学時代の恩師が、「生徒といっしょに遊んできなさい」という言葉を僕にくださったことを思い出す。きっと、威厳なんてものもそうした心構えの向こう から、自ずと沸いてくるものなのだろう。気を取り直してやるしかない。このページの掲示板にも初の書き込みがあったことだし、運気はこちらに 向いているはずだ。にしても、何かと自分で自分に言い聞かせている時間が増えた気がする。このごろ、一日がとても長いようで短い。

 



2003年4月13日(日) 「ホームページ、いちおう開設宣言」

兼ねてから密かに準備してきたこのホームページ、そのURLをそろそろ公表し始めようと思うに至った。とはいえコンテンツがまだ乏しいので、 大々的に胸を張ってアピールできるのは、もう少し先になりそう。さて、新たなページを設けようと思った経緯はいろいろあるが、主なキッカケは実家が ADSLを引いていたこと。つまり、これまでのダイヤル回線では困難であったmp3ファイルを、今後は容易にアップロードさせることができる ということだ。これまでのmidiファイルと違い、mp3ならボーカルも含めて、伝えたい音色をアクセスしてくれた人に伝えることができる。 まぁ、アクセスしてくれた人がダイヤル回線を使っていたら、ダウンロードに一苦労だろうけれど。。。

にしても、そのような作業の過程でかなり前に作った作品や文章などに触れると、少し恥ずかしくなるときもある。 当時はもちろん本気で思っていたんだろうし、また本気で唄っていたんだろうけれど、取り消したいとまではいわないが、わざわざ新たな ページに載せる必要があるのか、とふと思わず悩んでしまうのである。ただ、きまっていつもその次の瞬間、「それでも載せ続けよう」と意を決する 。恥ずかしいとしか思えない自分の昔を押入れにしまうのではなく、辿ってきた足跡として直視する。すると、案外その恥ずかしさは 依然として今の自分がまだ克服できていないままの弱さだったりもする。快いとはいえないが、大事なことではあると思うからである。前のページに 山積みの「徒然日記」および「こらむ」も、最終的には残らずこちらに移そうと思っている。

その音楽をアップロードする際に、自分以外の人と一緒に作り上げた作品もぜひページに載せたいと思い、「一応承諾を得たほうがいいかな」 というウワベの理由を片手に、東京で働いていたバイト先に昨夜ひさしぶりに(というより、辞めてからは初めて)電話をした。正直、 これまではお店へのコンタクトを、意識的にも、無意識的にも、自粛してきた感がある。電話をすることなど、いうまでもなくボタンひとつ押せば済む話である。 ただ、もう僕はお店のアルバイトではないのだという事実を、僕にも、そして周囲にも、キッチリと時間をかけて刻み込まねばならない。 おそらくそんな風に考えていたのだろう。忘れようというのではない。甘えることなく、それでいて支えとなるような距離感を模索していた ように思う。受話器の向こうへ僕の声を投げかけたとき、あくまで直感だが、向こうの空気が緩んでいくのを感じた。同時に、いつしか こちら側の空気までもが緩んでいた。つい織り交ぜて話してしまった標準語を、隣の部屋の姉がどのように聞いていたかが、やや不安。

それにしても、時間の向こうではなく空間の向こうで、同じ時間をがんばっている仲間が現実に存在している。アルバムをみているだけではわからない ことが、電話をするとよくわかる。電話を切ったあとの漲る力を甘えと呼ぶべきか否かの判断は未だつけられないままであるのだが、 たまに話すのも悪いことではないだろう。 ただ、思い出話ばかりするのは、楽しいけれど、あまり好きじゃない。なればこそ、いろいろな場所で同じ今を生きている仲間 同士、お互いの経験を過去形ではなく現在進行形で分かち合える場としてこのページ が少しでも機能することがあれば、それに勝る喜びはないだろう。当ページの開設には、そんな願いもほのかに込めている。

それにしても、このページの準備やら学校での授業準備やらで、このところ公立教員試験対策の勉強があまりできていない。がんばろう。

 



2003年4月11日(金) 「教壇デビュー!!」

いよいよ今日、教員免許取得後はじめて授業の教壇に立った。デビュー戦は1年4組。昨日の実力試験で試験監督をしたクラスでもあったので幾分気も楽か と思いきや、いざ教壇に立つとやはり自分の足がどこか宙に浮いているかのよう。加えて、クラスの子たちもまだ入学してきたての時期で 学校に慣れておらず、お互いの緊張と緊張が相乗効果を発揮したかのように、硬い空気が教室に淀んだ。それでも、数日かけて用意した教案と、 あとは根拠のないカラ元気を便りに予定を消化。その際にアンケートを配ったのだが、職員室に戻ってそれをパラパラ見ていると、 最後の「自己PR」の欄に「国語は苦手なのでよろしくお願いします」と書いてくれた生徒が少なからずいた。どうやら、不安からか僕は 生徒を過大に大きく見てしまっていたようだ。極めてあたりまえの話だが、生徒にとって僕は先生なのである。

次の授業は3年生のクラスだったが、雰囲気が1年生のクラスとは全く違う。男子だけで編成されたクラスということもあり、授業中でも 平気で話しかけてくる。でも、ここで頭ごなしに「黙れ」といっても険悪な事態になるだけのような気がしたので (もしかしたら言わなければならないのかもしれないが)、「楽しむときは楽しんで、話を聞くときはしっかり聞くというメリハリを つけよう」という約束を徹底することにした。生徒を静かにさせる方法は、大声で叫ぶことじゃなく、一人ひとりの目をじっと真剣に 見つめること。今は真剣な話をしているのだと、声ではなく空気で語ること。そんな気がした。

午後に1年3組でも授業を行い、ようやく今日のお勤めは終了。3クラス分のアンケートを見ていると、やはり色んな生徒がいる。 軽い話題のほうが生徒ウケするだろうとある程度タカをくくっていたが、文学や文法などの真面目な内容を授業に期待している生徒も 少なからずいる。「生徒」とひとくくりにできるような相手は存在しないことを、改めて知った。いうまでもなく、目の前にいるのはA君であり、Bさんなのである。なればこそ、 「生徒」のニーズにばかり気をとられていてはいけないのだろう。僕の中に、指導の軸が必要である。まだまだスキだらけの授業。 やってはいけないミスを、きっと幾つも犯してしまっているに違いない。

学校を背にしたとたん、どっと疲れを感じた。声も少し枯れていた。それでも、久しぶりに会った友人と、久しぶりにカラオケに行った。喫茶店で彼を待っているあいだに、 名古屋に赴任した大学時代の友人から携帯にメールも来た。睡眠も大事だが、仲間とのこういう何気ないコミュニケーションが 一番の良薬であると、B'zを絶叫する喉が物語っていた。家に帰ると、ケータイにメールがもう一件。東京で働いている大学の友人からだった。 新しい職場でやや落ち込んでいるかのようだったので激励のメールを返信すると、「どれだけ成長できるか勝負やな、おまえと。」と 吹っ切れたような返事が返ってきた。勝負。そういわれると、なぜか励ました側の僕の全身から、ますます疲れは消えていった。

 



2003年4月10日(木) 「机間巡視はおもしろい」

今日は学校の実力試験。僕は2時間目と4時間目に試験監督を任されていた。問題を配り、諸注意をし、 試験中に生徒を監視し、最後に回答を回収する。ものすごく単純な作業なのだが、いかんせん経験が著しく 乏しいものだから、不安は学校に着いても払拭できない。

チャイムが鳴り、問題を受け取り、試験教室へ。教壇に立つと生徒の視線が一気にこちらへと集まる。それだけで、なにか とてつもないエネルギーに圧されているかのような感覚に陥った。「こんなんで明日から授業ができるだろう か」と不安に思う余裕すらないままに、試験は始まった。

試験が始まると退屈なもので、当たり前だが水を打ったような沈黙だけがあった。少し気持ちに余裕が生まれてきた 僕は、監視というよりは気晴らしに、机間巡視を しようと思った。机の間を歩いて回るのである。それでも、初めは得体の知れない抵抗力が僕に働いて、 教壇から下りるのには、少しだけ力を要した。いざ歩いて見ると、これがなかなか面白い。そこにあるのは、 一生懸命に問題を解いている生徒の姿だった。高いところから40人を一斉に眺めただけでは伝わってこない必死さも、 机のそばで見ているとよくわかる。一方、試験中であるにも関わらず眠っている生徒もいた。ポンと肩をたたいて 「がんばれよ」と小声で囁いてやった。彼はハッと目を覚まし、10分ほどボーっとした後、適当に最後まで一気にマークした後、 再び顔を埋めて眠ってしまった。

思えば何でもないことばかりである。それでも、僕にはどれもが新鮮である。きっと働いているうちに、 その全てが当たり前のことになっていくのだろう。そして、それが成長でもあるのだろう。 そのことは、言い換えれば、不安や緊張のなかでの実践という営みの向こうにしか人間の成長はありえない ということでもあるのかもしれない。ドキドキに、強がって突っ込んでいく。そういえば、 同じく教師をやっている友人がいつか僕に言っていた。「経験は経験でしか補えない」と。

 



【運営会社「パラダイムシフト」サービス】

無料ホームページ   携帯ホームページ   無料ホームページ作成   レンタルサーバー   ブログ   ホテル   アンドロイド   海外旅行   格安国際電話   レップチェッカー