2002年8月8日 「向かいあって話すということ」

 このところ、人に会う機会が少なくてどうにもいけない。学校も夏休みに入り、バイトに励もうにも、卒業論文のための読書および就職活動のため、時間的というよりも精神的に余裕が無い。おおかた、家と大学図書館のあいだを振り子のように往復する毎日で、もちろん図書館でも地下のブースで一人になるため、このところもっぱら人と会話する機会が減ったのだが、これがどうにもいけない。誰とも口を利かない一日を過ごそうものなら、思考がとめどなくどこまでも偏っていく気がするとでもいおうか、とにかく気がめいる。そう、たやすくブルーになるのである。そして、心がブルーになると考え方もそれに付き従うもので、たやすく人間不信に陥る。つい先日も、僕はあと一歩でバイトを辞めるところまでフラフラ彷徨っていた。その動機となった元凶は、傍から見ればなんてことないかもしれないが当の僕には重大なことで、要は人づてのウワサである。

 「ウワサを信じちゃいけないよ」と誰かが歌っていたが、そのように歌ってもらわないと(歌ってもらっても)つい信じてしまうのが人間である。僕はバイト先で経験の歴こそ最長であるが、先に述べた事情もあり、昨今は尽力という面ではあまりふるわない。そうして、誰とも会わない日々に気を病んでいると「もうおれは必要とされてないな」と思考までネガティブになる。そして、不思議なことにそういうときに限って、ネガティブな情報にだけやたらと敏感になってしまうから困ってしまう。「この頃の津田は周囲から浮いている」「冷静に考えれば、津田は仕事が雑だ」などと、自分を打ちのめしそうなウワサばかりにしか飛びつくことができなくて、そして案の定、打ちのめされてなお気を病むという、まさに悪循環な日々である。

 しかし、そういうわけで場合によればバイトを辞める意思を伝えようかとも半ば思いつつ、こないだ久しぶりにバイト友達と飲みにいったのだが、するともうあきれるくらい見事に、これまで僕を密封していた憂鬱は解消されたのであった。それは一言でいえば、僕の誤解であった(もう少し厳密にいえば、僕の悪い誤解であった)。あれほど何度も一人で論理的に確認を重ねた理解が、人に少し説明されただけで、それが悪い誤解であったと理屈ではなく感情で肯けてしまうのは不思議であった。少し注釈を加えれば、僕にそろっていた情報自体はこの前後で全く変わっていない。やはり「この頃の津田は周囲から浮いている」という声も「冷静に考えれば、津田は仕事が雑だ」という声も、やはり当時からあったのだろうと今でも僕は理解している。つまり、このような声に対する僕の姿勢が一変してしまったということだ。そこで、なぜ僕の心境が一変したのだろうかということについて、少し考えてみた。

 直に向かい合って本人の声を聴くのと、又聞きのウワサとして第三者からその声を耳にするのとでは、決定的に違うところがある。それは、又聞きではその人の声の《ツヤ》までは僕に届いてこない、ということである。声はいうまでも文字ではなく、音を持っている。そしてこのことは手紙やメールでも同様であろうが、第三者からのウワサでは(たとえ伝言ゲームのようにはその内容がこの耳に届くまで全く変容しなかったとしても)本人の声の音が伝わってこない。どのような口調で、どのような状況のなかでその言葉を発したのか、てんでわからない。加えて、面と向かって話せばそのような音声としての情報のみならず、その理解を助ける身振りや目線といった細かな視覚的情報をも得ることができる。逆に言えば、ウワサ話というのは、このようにあまりに多くの情報がすでに抜け落ちてしまっているがために、つねに誤解の可能性を多く孕んでいるということだ。

 しかし、いま「誤解」という言い方をしたが、なぜこういう時にはきまって悪い方向に誤解をしてしまうのか。突き詰めれば、なぜ悪い誤解を正当な理解として選択してしまうネガティブな心境にあるのか。僕はこの原因を、さしあたり人に会う機会の少なかったことに見ている。

 誰かと面と向かって話しあうことを対話と呼ぶならば、対話の具体的な内容は絶対に僕の思い通りには進まない。かといって、それはきっと相手も同じで、おそらく相手の思い通りにも進まないだろう。いわば二人で(あるいは僕でも相手でもない神様のような誰かによって)対話は進められる。しかし、そうはいっても当の僕には、これといって何かに操られて思っていもいないことを喋らされているような感覚など全くなく、終始自分の意思、自分の言葉で話している感覚だけがある。となれば考えられるのはただひとつで、それは「対話をすると自分の意思(本音といってもいいだろう)そのものが変えられてしまう」ということではないだろうか。そしてここで最も重要なのは、その変えられ方が日々をポジティブに生きることのできる方向を指している場合が多いということである。

 もっとも、このように言ってしまえば反論も容易い。対話の結果として必ずしも日々をポジティブに生きらないということは、たとえば別れ話や嫌味な注意などを例に挙げるまでも無いだろう。しかし、別れ話や嫌味な注意も、影でされているのを知るよりはまだ面と向かってされるほうが、大方その後の日々を前向きに生きることができる、と僕には思われる。先にも少し触れたが、人と接することで確認できるのは、さしあたりは自分の側における変化である。それはいずれも小さなものであるが、しかし確かな変化ではあるだろう。人と対峙したとき、僕はもはや一人でいたときの僕ではなくなり、だからつい(一人のときには)思ってもないことを口にしたりもする。そしてそのような時、僕は自分でも思ってもみなかった自分の新しい一面を、良くも悪くも見つけることになる。ここでこれまでの自分についての理解、いわば自己意識が改められることになるのである。相手に対しても同様で、相手がこちらの思ったとおりの返事をくれることは極めてマレである。ゆえに、ここで僕における他者理解もまた、少しだけ改められる。そしてこの自己意識(ひいては現実理解)の小さな改変、小さな驚き、これこそが日々を前向きに生きる秘訣なのではないだろうかと、昨今ひどく誰とも会わなかった僕は、今そんな風に思っているわけである。改められることのない理解にすがって生きることは、どこか閉塞していて、かつ退屈であるからだ。

 ところで、日々を前向きに生きるひとつ方法としてカウンセリングというものがある。カウンセラーの主な仕事は、ただ「クライアントの話を聴くこと」であるそうだ。たしかに、仮にグチであっても、一人アタマのなかで呟いているよりは誰かに聴いてもらうほうがスッキリする。もちろん、ここでその聴かれ方、聴くほうの態度が重要になるが、文字としてのうわべの言葉だけでなく、まさに声として《ツヤ》まで含めた言葉をいわば相手ごと受け止めんとするような態度であるならば、面と向かって話を聴くということには、それだけで相手に安心を与えることができるはずである。そしてもちろん、対話は一人ではできないので、面と向かって話し合うということは、それだけでお互いに安心を与えあえるという可能性を、確実に持っているといえるだろう。

 そういうわけで、人間のコミュニケーションとは、ただ意思疎通するために行なわれるのではなくて、もしかしたら生きるエネルギーとでもいえるようなものをお互いがお互いから補うために行なわれているのではないだろうか、とも感じるのである。たしかに、向かいあうということは、ある意味ではこれまでの自分の殻を壊すということでもあり、時として対話を避けたくなる場面もあるにはあるだろう。しかし、そういう時は未知のもの(これまでの殻を壊されること)に対して自ずと抱いてしまっている自分の臆病を、どこか正当化してしまっているということが多い。やはり、少なくとも一人のときよりも誰かといるときのほうが、どこか地に足がついた感覚というか、自分が自分であるという実感が僕には沸いてくるのだ。

 人生が嫌になったときほど、無理をして、人に会おう。

 



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