2001年12月9日 「誰かに優しくあるということ」

 大学でのある授業中のことだった。その先生はいつも資料を用いながら講義を進める人で、時にはただそれを脈絡なく読み上げるだけという退屈な授業となることもある。そして、その日も先生はいつものようにプリントを配布した。教室がそれほど大きくなかったこともあり、一列一列、先生がそれぞれ各列の人数分のプリントを前から後ろに流していくという、ごくありふれた配布の仕方であった。そして僕はというと、列の前でも後ろでもない、ちょうど真ん中あたりで寝不足の目を擦りながらそんないつもの風景をぼんやりと見ていた。そしていつもならプリントを受け取ってしばらくするとふたたび眠りの世界へと落ちていくはずであったが、その日はおやっと不思議なことに目がとまった。不思議といっても何てことはない、ただプリントの数が足りなかっただけのことである。僕を含めて後方には4人座っているにもかかわらず、なぜか手元には三枚しか回ってこない。その日配布されたプリントは三枚で、初めの一枚目が配られた際には「先生の数え間違いだろう」とも思ったが、二枚目もやはり三枚しか回ってこない。そして「またか」と思いつつ三枚目が前から送られてくるのを待っていると、ふと僕のすぐ前の人が資料のプリントを三枚ともスッと二部ずつ抜きとって並べているのが目にはいった。その瞬間に思ったのは、どういう事情で二部必要なのかは知らなかったけれど、とにかく「利己的なヤツだな」という直感だった。いうまでもなく、彼が二部ずつプリントを抜きとることで後ろの人に回らなくなるからである(もっともこの点について、そこまで気づいていながら僕自身も自分のプリントを後ろに回さなかったという点では十分に利己的ではあり、その意味で彼を非難する権利はないのかもしれない)。そして当然のことながら、先生がみんなに配布し終わったあと、僕の列の最後尾に座っていたひとりの女生徒が「足りません」と不平を漏らさんばかりに、教室の前までわざわざプリントを受け取りに行くという労力を強いられることとなった。

 さて、そうして授業が始まって10分ほどしたころだろうか、ちょうど僕がうとうとしかけたころ、教室前方の、ちょうど黒板の横に位置する出入り口から、一人の女生徒が遅刻して教室に入ってきた。それだけなら僕の眠気も負ける気などしなかったのだが、その女生徒がこちらに近づいてきてすぐ前の席に腰を下ろしたものだから、僕の睡魔は自ずと一、二歩うしろへと退いた。そうしてマブタのやや軽くなったそのスキに僕が鮮やかにも目にしたのは、先ほどプリントを二部ずつ抜き取っていた男子生徒が、なにやら感謝されながらその女生徒に三枚の資料の一部を手渡している光景だった。おそらく事前に彼は彼女が今日遅刻してくることを知っていたのだろう。そして頼まれたのか自発的なのかはわからないが、そんなわけで彼には先ほど資料が二部必要だったのだろう。これでさっきのモヤモヤも少しは解消された気分になり、いっそう安らかに眠れると思ったその瞬間、別のある疑問が僕の脳裏に浮かんだ。その女生徒から「ありがとう、優しいね」とお礼をうけて「ぜんぜん大したことじゃないよ〜」とでもいわんばかりに得意げになっている男子生徒の表情が目について浮かんだ疑問なのだが、それは「誰かに優しくあるとはどういうことだろうか」という意味のクエスチョンマークだった。まず、この女生徒にとっては(社交辞令的な要素もおおく含まれているとは思うが)その感謝の言葉のままに、彼はまさしく「優しい人」であったろう。彼が二部のプリントをあらかじめ確保してくれたおかげで、遅刻によって座席に着くまでの一連の動作に注目をうけた彼女は、ふたたび前に取りにいくという注目と労力を免れたのである。その意味においては彼のとった行動は紛れもなくひとつの「人助け」であり、道徳的でさえある。しかし、彼が一見して道徳的でありうるのはあくまでその二人の世界においてだけである。授業の初めに彼がプリントを二部も抜きとったおかげで、プリントが回ってこずに何の罪もなく前までプリントを取りにいくハメになった女生徒のことを思いだしてほしい。仮にこの手渡す風景をこの最後尾の女生徒が目撃したとして、彼女の目にもこの男子生徒は道徳的であるといえるだろうか。彼が最後尾の人を考慮しての確信犯だったか否かは定かではない。しかしいずれにしても、僕がここで考えたのは、誰かに優しくするということは知らず知らずその世界の外部の人を限りなく無視、あるいは排斥することになるのだな、ということだった。

 優しさについては、ついその前にも深く考えさせられることがあった。それはバイト先での出来事を通じてなのだが、バイト仲間が三人、先月限りで辞めることとなり、その送別会としてみんなで飲みにいった際のことである。一次会で飲み食いしたあと、二次会はカラオケということになったが、その三人のうちの二人は翌日の事情もありカラオケには参加せず帰宅した。さて、イベント好きな僕はこの送別にあたって、ひとつのオリジナルの唄を用意していた。そのバイトのチーフとデュエット形式の唄で、この二次会で初披露する手はずであったが、その三人中二人が帰宅してしまい、お披露目を見送ろうとチーフに小声で打診もされた。しかしその場の雰囲気なども考慮して結局その場で歌うことに決め、手書きで歌詞を記したポストカードを添えて歌ったその唄は、予想にも増してその「卒業生」に感動を与えたらしく、最後は感謝の涙まで頂戴した。そして自分のつくった歌にそこまで感動を感じてくれるとなると、アマチュアながらミュージシャン冥利に尽きると心から思った。その日は僕もその「もらい感動」のうちに夜を明かした。さて日が明けてみてもう少し冷静に考えてみると、僕は昨日早々に帰宅した二人の「卒業生」になにも餞(はなむけ)をしてやれていないことに気づいた。なにも餞は義務でもなければ慣習でさえなかったから、その意味で僕は自分を責める必要などなかったのだが、三人のうちの一人にポストカードまで贈ったとなると、残る二人の目にはともすると「津田に無視された」という印象を与えかねないとも思った。それもまだ僕一人のことならば個人的な恨みで済むのだが、なにせ店のチーフと共同の演出であったから、「店全体に無視された」と思われてしまっては彼らに与える傷も大きかろうと、すこし不安にもなった。冒頭の例で言えば、二人を「座席最後尾の人」に仕立ててしまったのでは、という危惧である。もっともそうはいいつつも、この種の不満になら申し訳ないと思いつつも、「二人は先に帰ったんだから仕方がない」という言い訳がその責任問題上、論理的にまかり通るようにも思われた。そう、僕が本当に「優しさ」について違和感を覚えた焦点はもう少し別にあった。

 それは一口に言えば、長い時間をかけて餞の曲を用意したということそれ自体である。いうまでもなく彼らにバイトを辞めて欲しくはなかったのだが、そう思いつつも一方では冷静にコンピュータの前で音符を入力している自分がそこにはずっといた。一体、誰かに優しくあるというのはどういうことだろう。たとえば、もし今回辞めていくのが入り立てのバイトでほとんど口も聞かなかったような人だったら、僕はおそらく曲なんて作らなかったかもしれない。とすれば、不特定な誰かさん、誰でもというワケではなく、たしかにそこには「〜君のため」という意識が働いていたはすである。とすれば、そこにはある種の打算が読みとられうるのではないだろうか。単なる自己満足を越えた、ある種の政治的な打算である。それはたしかに意図することなく現れ、しかし決して事後的なつじつま合わせの説明としてではなく、たしかにその「優しい」行為の瞬間に働いていやしなかっただろうか。総じて言えば、その打算の先にあるものは「友人関係の持続」という「無意識、かつ意図的」な感情に尽きるように思われる。

 冒頭の例に戻ろう。友達のためにプリントを一部確保していた男子学生の心にあったものは何だろうか。ただ「一部」確保したということから、先日の僕と同様に「〜さんのため」という意識が働いていたことはいうまでもない。したがってここにある種の打算を読みとるならば、それは「優しさ」という大義名分の裏に身を隠したひとつの臆病の現れであるようにも思う。つまり、「友人関係の持続」は彼にとって必要なことであり、そのために時には無意識的にであっても「優しく」振る舞わざるをえないのではなかろうかということである。これはまさしく「振る舞わざるを得ない」のであり、そうしないと理不尽にも落ち着かない、心的ストレスを感じてしまうという点でひとつの脅迫であり、この種の優しい行為とはいわばその脅迫からの防御である。そして、そのような行為が一般には賞賛されるべきものとしてまかり通っているように思われる。

 一方、そのような彼を「優しい」と形容した彼女の心模様はどうであろう。誰かを「優しい」と形容するのは、その人から自分にこれまで向けられた行為を省みて、その量的に優しいものが多かったからそうするのであろうか。おそらくそれは誤りであろう。例を挙げるのは簡単で、たとえば日頃は乱暴な亭主が瞬間見せる優しい行為に惹かれて生活を共にしているといった類の話はよく聞く。また、同じ行為であってもそれが違う人から向けられた場合、時に方や「優しい」プラスの行為となり、方や「見え見えで偽善的な」マイナスの行為となる。そして、これがプラスとなるかマイナスとなるかについては理性の入り込む余地はないように思われる。ただ感情的に、無根拠に、相手が自分にとって優しい人であるとみなしている。こうした背景にはただそうあって欲しいという願望だけがあり、それは時にはそれ以外の在り方は許さないという一方的な束縛という形でもあらわれうる。束縛とはその関係を失いたくないという感情あっての手段であろう。すべての行為の意味づけに先立つ何かが、いつもどこかで働いている。

 総じて、逆に考えると真に誠実な優しさとは、前もって意図的に表現しようとすることなどしえないのではないだろうか。優しくしよう意図した瞬間、それは誠実という点で直ちに濁りを帯びたものになる。誠実な優しさとは気づかないうちにただ表現してしまっているもので、しかもそれがたしかに優しさであったと確認する術がこちらには何ひとつとして存在しないという、まったくもって難儀な代物であろう。その意味において優しい行為というのは常にその行為の受け手の記憶にしか存在しえない。そして、受け手の記憶に残るその「優しさ」はというと、その解釈がその行為の側の意図とは独立しているが故に、受け手は都合良く、好き勝手に何にでも「優しい」というラベルを貼ることが可能となり、それは「優しさ」の受け手の願望を投影することにつながっていくだろう。優しい人であってほしいから、その人(または行為)を優しいと形容する、という姿勢である。

 



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