2001年7月7日 「friendship」

 さる7月の2日、僕はバイトを終えて飲み会の席に座っていた。六月いっぱいで「牛角」戸越銀座店を卒業することになっていた2人のアルバイトの、俗に言う送別会のようなものだった。その席で、皆の注目を背に僕は一枚のCDを2人にそれぞれ手渡した。CDのラベルはその席にいたバイト友達からの寄せ書きになっていた。送られる2人は寄せ書きに対しては驚きを隠せなかったようだったが、しかし曲の内容はすでに知っていた。曲のタイトルは「friendship」。

 ことの始まりは約一ヶ月前にさかのぼる。「牛角」戸越銀座店には社員として店長とチーフの2人が務めていたのだが、六月いっぱいでそのチーフの方が転勤になるという話が持ち上がったのだ。チーフは性格も穏和で、冗談にも長け、アルバイト達からも自ずと慕われる存在であった。もう不思議としかいいようがないほどに、彼への非難の声はなかなか聞こえてこない。そして、そんな彼に持ち上がった転勤の話だっただけに、波紋は彼にというよりも、むしろアルバイトの間に大きく広がったのではなかろうか。そして僕はひとつのアイデアに思い当たる。この記念に曲をみんなで作ってはどうか、というものだった。以前このような機会に個人的に曲を送った経験があり、それがはたして喜ばれたかどうかは実は未だにあまり定かではないのだが、ともかくこういう際の僕の思考回路は「自分がされたら嬉しいことを相手にしてあげよう」という方向へと、いつも決まって吸い寄せられていってしまう。少々の難産ではあったが、やがて曲も出来上がっていった。

 みんなへの最初の打診はメールでやった。ふれ込みは「坂本龍一らの地雷ゼロキャンペーンみたいに、みんなで一曲うたってみない?」のようなものだったと記憶している。意外にも反応は寂しいものだった。10通以上送ったのだが、返事が来たのはほんの数通だけだった。他人はなかなか自分の思い通りには思っていてくれていないもので、みんな喜んで参加してくれるだろうとタカをくくっていた僕はある種の人間不信と、同時に現実の冷たさに身を曝らす日々をしばらく送ることとなった。しかし、そんな不信感にも似た灰色の感情も、やがて時間と共に徐々に解消されていくことになる。メールではなく実際に面と向かって打診してみると、思いのほか参加の同意を得ることができた。「あのメール内容じゃ返事しづらいよ」といったような声が少なからず聞かれた。そういうものかと思って送信内容を読み返してみると、なるほど返事しづらいようにも思えてくる。ともかくも「人気者・チーフを送る」という大義名分のもと、10人以上の参加者を得た。僕の描いていたこの曲の構想は「唄」プラス「曲の間奏での一人ずつのチーフへのコメント」だった。なかには歌うのは恥ずかしいからコメントだけでいいかな、という人もいた。もちろん大歓迎だった。

 しかし、事態は突如として思わぬ方向へとそれていった。レコーディングのほうは実に順調に進んでいた。まず仮唄を僕がとってCDRに焼き参加者に配る。みんなけっこう曲を気に入ってくれたようで、都合のいい日にあわせて3〜5人単位でカラオケボックスに入り、大した問題もなく各自のパートは消化されていった。そして残すところあと2人となったところで、状況は急変した。チーフの転勤が実質上の見送りになったのだ。曲は完成間近である。チーフの転勤延期はたしかに嬉しかったが、この盛り上がったテンションはあたかも糸の切れた凧のように行き場を失うこととなり、心中は正直いって複雑であった。そうして振り上げたコブシはしばし振り上げられたままとなったが、しかしその状態も長くは続かなかった。そこに来たのが、この2人のアルバイトの「牛角卒業」である。この2人は例のCD企画への参加者でもあり、すでに録音も終えていた。そう、完成はもう間近だったのだ。そして曲の内容から考えても、このまま宙づりにしておくよりは形にしてみんなに渡したほうがいいだろうということで、これを機に曲を詰めていくことにした。そしてこの集まりの前夜に僕はようやく最後の一人のレコーディングを無事に終え、CDは一応の完成を見るに至った。もちろん曲の構成は「唄」プラス「曲の間奏での一人ずつのチーフへのコメント」ではなく、「唄」のみとはなってしまったが・・・。


 このように紆余曲折を経て出来上がったCDではあったが、反応は思いのほか良かった。電話とメールで二度もありがとうと言ってくれる友達もいた。何かが残るのは本当に嬉しいと言ってくれる友達もいた。「歌っとけばよかった」という後悔の声さえ中には聞くこともできた。そのようなお礼の言葉に対する僕の返事は、きまってこうだった。「おれはただのキッカケに過ぎなくて、実際にはみんなの気持ちがこのCDを生んだんだから、おれのほうこそこんなCDを貰えてみんなにありがとうだよ。」
 もちろん嘘はなかった。素直な気持ちでこれに似た言葉をみんなに返した。そしておそらくこれからもそう返し続けるだろう。ただ、その見事なまでに透き通った素直さに、僕は少なからず疑惑に似た不気味さをふと感じてしまった。同時に少し心苦しくもあった。つまり、このCD制作の提案、制作、そして完成の過程において、僕の中にある種の不道徳な感情、たとえば優越感や虚栄心といったものはなかったのだと、はたして胸を張っていえるだろうかという自問自答が始まったのだ。いや正確にはこのCDの制作過程の間じゅう、ただ深く考える時間がなかっただけで、それはずっと僕につきまとっていた。

 道徳ほどこれに抗しがたい力はないだろう、と常々感じている。たとえば法律なら一定の手続きを踏んで改正すればいい。もちろんそれも容易なことではないだろうが、道徳にあってはさらにその規律の改正が困難であると思われる。なぜならそれは文章として明記されていない「暗黙の了解」という霧の向こうに実に多く潜んでいるからだ。それでいて、法をはみだしても道徳に添った行為であるならまだ温かい目も向けられえようが、これが逆に法に添いながらも道徳をはみだした行為となると周囲からはきまって冷めた目が向けられることになる。やはり道徳の僕らへの拘束力は強いといわざるをえない。そして先に述べた自問自答は、「僕はこの道徳というものを結果として実は不当に利用してはいまいか」というある種の自己嫌悪に似た想いに端を発する。道徳、つまり絶対的ともいえる正義のもとでは、自ずとこれに従わないものを弁解の余地もない程に絶対的な悪者へと仕立て上げる。このことをうすうす感じつつ、僕は「人気者・チーフを送る」という大義名分を大々的に掲げた。このCD制作は実に道徳的な企画であるといえよう。ゆえにそこでは不参加は暗に認められていない。だからこそ皆のいるところで直接打診する方が、メールなどで個別に打診するよりもスムーズに同意の返事が得られてしまう。また歌うことが苦手な人にも、歌ったりコメントだけするといった形での参加を暗黙のうちに強いることになってしまう。もちろん僕はいうまでもなく参加してくれた友達の自発的な想いは信じたいし、実際に今もかたく信じている。義務感に促されて仕方なくみんな参加したとは、これっぽっちも思っていない。ここで僕が疑いの眼差しを向けているのは、そのような純粋で自発的な想いの向こう側で僕らの気持ちを操っている、道徳という名の巨大な力の固まりに対してである。この点だけは、どうか誤解しないでいてほしい。

 そしてあるひとつの疑問にぶつかる。それは「道徳を説く側の人間を、はたして道徳的と呼べるだろうか」という疑問だ。道徳的な行為とはいわば私利私欲を離れて他人に尽くす自己犠牲的な行いのようなものであるが、ではそれを他人に説くとは一体どのようなことなのだろう。まずそれは紛れもなく他人に自己犠牲的であることを促すことであり、そうして私利私欲を離れた行為をなした他人に対しては通常、周囲からは賞賛の類が寄せられる。しかし、真の道徳者は先にも述べたように私利私欲を離れて思考する。では真の道徳者は、他人から自分に向けられるこのような自己犠牲的な振る舞いに対して、はたして賛辞を送るだろうか。おそらく、彼は静かな拒否反応を示すだろう。ただ沈黙するだけかもしれない。少なくとも、他人のそのような行為を決して必要とはしないだろう。なぜなら、それを必要としてしまった時点で自らが私利私欲に絡め取られていることを意味してしまうからである。真に道徳的な人はいうまでもなく私利私欲から脱却しているはずで、もちろん他者が道徳的であることなど必要とするはずもないから、いちいち周りに道徳など振りかざさないのではないか。これが先ほどの自問自答のいわば核にあたる部分である。その意味において僕はここで自らの「不道徳」をまざまざと痛感することになるのである。自発的に自己犠牲的な行為へと駆り立てられる瞬間、そこにはいつもある種のエゴや打算といったものが混じっていやしないだろうか。周りからの尊敬、名声、評判などへの期待が、少なくともそこに認められやしないだろうか。

 このような事をある友人にポツリと漏らしたところ、「いや、実際に虚栄心とかってあったんじゃないの?」というなんとも軽いトーンの返事がポンと返ってきた。しかし、不思議と僕はこれに「考えが浅はかだ。」とか「人ごとだと思って。」といったような印象はみじんも抱かなかった。むしろ道徳的な行為とはそういうものだろうということを直感しさえした。そもそもこの友人の「実際に虚栄心とかってあったんじゃないの?」という返事を僕に否定など出来るはずがなかった。否定すれば、まさしくその否定はほかならぬ虚栄心からくるもののように思えたからだ。仮にここで「虚栄心からじゃない」と答えたところで「じゃあそもそも悩む必要なんて無いじゃん。」とさらに軽いトーンの返事が返ってくるのは明らかな気がした。健全な道徳的行為について苦悩する姿それ自体がすでにその人間の利己的な本質を物語っている。名声や評判は人間なら誰もが欲しがるものであるし、否定されえない。そしてあらゆる道徳的な行為の動機もまた、おそらくはここに帰結するように思われる。その意味で道徳的な精神といったものは、いわゆる自己評価としてはありえないものなのではないだろうか。それは他人の道徳的な行為の向こうにのみ抱きうる、ある種の<妄想>のように思われる。その他人の道徳的な行為もまたその利己心が源となっているという意味で、それは<妄想>である。しかし、この<妄想>は決して有害なものでも、また僕らにムダなものでもないように思われる。他人の道徳的な行為の向こうに、たとえ<妄想>という形でではあってもそこに道徳的な精神を錯視しうることは、それだけで自らの行為を律しうることができるように思うのだ。繰り返すことになるが、あらゆる道徳的行為の動機は不道徳に行き着く。しかしたとえその源泉は不道徳であっても、それが全体として道徳的な行為となることはそれだけで実に意味のあることではあるまいか。源泉から全体まで不道徳な行為もまた世の中には数え切れないほど蔓延しているのだから。その意味で、この自分の行為の底に認められる利己的な源泉を他人に気づかれまいと私利私欲を離れようとしつつ努力すること、これこそが僕らにとって当面の、そして半永続的な道徳的課題のようにも思われてくる。そのためには、自らの中に内在するあらゆる行為に対する不道徳性を直視することがまず求められよう。例えばマザー・テレサが道徳人の一人であったとするならば、おそらくは自分の中にこびりついて離れない不道徳な面を何度も何度も噛みしめながら、そうして噛みしめつつもその不道徳な側面を他人に対しては容易に気づかせなかった点にある、といってしまえば些か飛躍のし過ぎであろうか。

 何にしても今回のCD作成に関して、心の底の1ミリ手前からではあるけれど、僕は今ごろになって自分を誉めてやろうという心境にようやく至ることができたのです。

 



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